しょうせつ
◆蝋燭
「 蝋 燭 」
松 岡 泰 成
鮮やかなエメラルドグリーンの中,一人,立っていた.背筋をしゃんと伸ばし,白いシャツ,白い帽子を着ている.顔は怒るでもなく,歯を見せるでもなく,至って穏やかである.幾分目元が緩み,実にさわやかであった.首からかけられた黒いカメラを右手に支え,その不釣合いに大きい望遠レンズは,本人の趣味が何であるか,明確に物語っていた.それは写真家の宿命ともいえる本人の,数少ない貴重な写真であった.遺影である.
富士を象った花々.波を象った花々.祭壇は一面,花々で埋め尽くされ,遺影を取り巻いていた.花々はまた,写真として祭壇に飾られていた.遺影の持つ,存在感溢れる黒いカメラにより収められた写真である.その数々の花弁の中,遺影は穏やかにこちらを向いていた.遺影の前には,百数余の整然たるイスが,主待ち顔で鎮座している.その最前列の一つに私は腰掛け,遺影と向き合っていた.平成十二年九月十八日午前三時過ぎ.薄暗闇の中のことであった.
祭壇の上部に祭られた遺影の下に,遺体は安置されていた.燭台からは,線香の煙が絶えず漂っていた.もう何度となく燃え尽き,その度に火を継ぎ足した線香であった.私は今,その線香の隣に置かれ,ほのかな光を発する蝋燭の焔に見入っていた.すぐに燃え尽き灰となる線香の傍らで,長らく火を守り続けてきたその蝋燭も,漸くロウが尽き,今にも立ち消えそうだったのである.私は座席を立ち燭台へ近づくと,立ち膝のまま,蝋燭の火の尽きる時を黙って見守っていた.隣で漂う線香の煙が,蝋燭を見つめ,祭壇を仰ぐ私から,視界を薄らと奪っていた.
* * *
平成十二年九月十五日十九時前,母から第一報が入った.
「今夜当りかもしれない.」
母は私に告げた.七月末に入院し,ここ二週間ほど,祖父母,母姉妹が泊り込むようになって以来,初めての病院からの呼び出しであった.
(早く駈け付けねば……)
その時家で待機していた私は,この呼び出しにいささか動揺する一方,母の口調から察し,恐らくまだ暫くは持つだろう……と思っていた.母は会社にいた父にも連絡したという.そこで,父の迎えを家で待つことにした.その報を聞き,父がすぐに会社を出ると思ったからである.
第二報が入ったのは,それから数十分後のことだった.父の迎えが来るのを今か今かと待っていた,その時である.受話器をとった瞬間,この数十分で祖父の様態が一変したことが知れた.心電図が乱れ,医師が集まっている……と告げる母の声が,明らかに動転している.来るなら急いでおいでと言い,母は電話を切った.間髪,父に連絡をとり,今,どこにいるか尋ねた.まだ会社にいるという.一瞬,身体の傾くのを感じた.焦った.心のざわめく音がはっきり聞こえた.私は父が,すでに先の電話で会社を出ていると思っていたのだ.慌てて父に急を告げ,早く家へ帰るよう伝える傍ら,母の妹の家へ何度か電話を掛けた.出なかった.数度掛けたが,転送後に留守禄となるばかりであった.仕方なく私は留守禄へ向けて語りかけた.
「大津さん.泰成です.今,十五日十九時二十五分です.おじいちゃんの容態がかなり悪いようですので,父と病院へ向かいます.帰りましたら誰かの携帯まで連絡下さい.父の携帯番号は……」
その直後,第三報が入った.母の妹からだった.声がおかしい.全てを一瞬で悟った.
(間に合わなかった!)
後悔・悲壮……という類のものではなかった.不謹慎かもしれない.しかし,そうですか分かりました.と応えた私は,虚しかった.
(そうか,間に合わなかったんだ……)
病院へ駈け付けた時には,全てが終わっていた.既に部屋の片付けが始まっていた.看護婦へ挨拶し,その前を通り祖父を見た.
(白くなったな……)
的外れな第一印象かもしれない.しかし,手の異様に白いのが,私の目に強く焼きついた.病院から車で三十分の所に住み,かつ,その日偶然家に居合わせたにも係わらず,最後に間に合わなかった.それが妙に心に沁みた.
* * *
薄暗闇の中,燭台に灯る蝋燭の焔は,消えそうで消えなかった.ロウが尽き,アルミの土台が剥き出しになっても,蝋燭はほのかに揺らめきながら燃え続けていた.あるいは単なる感傷かもしれない.いや,間違い無くそれは感傷に過ぎなかった.祖父の最後を看取れなかった事実と,尽きかけた蝋燭の焔を最後まで見届けること.そこには,何の繋がりもない.しかし,私は無性に,その尽き掛けた蝋燭を最後まで見守りたい衝動にかられていた.例えそこに何の繋がりが無くとも,何らかの形で納得いく「終わり」が欲しい……そう私の無意識が欲していた.それはフッと一瞬,煙のように沸いた思いであったが,一度心の中にできてしまったルールでもあった.思いついた以上,必ず守らねば気が済まなかった.これは亡き祖父のためではなく,自分のためであった.
(よし.この蝋燭の火を,最後まで見守っていよう.)
遺影を前にして,もはや尽きようとする蝋燭の火はか細く,些細なことで揺らめいた.しかしそれでも火はなかなか消えなかった.その間に線香が一本燃え尽き,立ち膝がしくしく痛み出した.時計は四時をまわった.私の掌中には,いつ蝋燭が消えてもいいよう,真新しい蝋燭が一つ,握られていた.それはいかにも新しく,つやつやしたロウの輝きを持っていた.今,目の前でか細く揺れ動く蝋燭の焔をぼんやり眺めながら,私は,掌中のこの真新しい蝋燭が赤々と燃え上がる姿を想像した.それは祖父に伝えたくて,遂に伝えられなかった言葉だった.新しい蝋燭の焔は,確かに燃えようとしていた.が,しかし,まさに燃え尽きようとする蝋燭も,最後の火を懸命に燃やしていた.その焔は小さく,私の細かい息遣いでたちまち消えてしまいそうな勢いであった.しかし,それを吹き消すことは,私にはできなかった.
* * *
家族・親族と会社関係者.現在の社会を私はつくづく不思議に思う.一週間は七日から成り,その内休日は二日である.一日は二四時間から成るが,睡眠時間を除く十二時間の内,三分の二以上を私達は屋外で暮らしている.
私は祖父の地位を昔から聞いていた.また,祖父がどのような人間であるか分かっていた.つもりだった.しかし,それはあくまで私の頭でイメージした祖父の像であり,その実態をこの目で見たわけではなかった.祖母との仲睦まじい姿は目にしていたが,会社での姿を見たことは一度も無かった.
勝見氏という方がいる.祖父の会社の関係者である.初めてお会いしたのは,祖父の病室であった.
(できた人だ.)
私は瞬間,そう感じた.見目の美しい方であったが,それ以上に一つ一つの動作が美しかった.動作の一つ一つに万感が溢れていた.勝見氏の仕草は,世間慣れした人の見せる画一的な挨拶とは一線を隔していた.私は技術屋の卵として研究生活を送り,組織……人と人との本格的なつきあいに関しては,およそ縁遠い存在であった.したがって,下手に真似事をすれば,それは模倣となり,人間性の消えうせた機械的な動作となった.本当の意味での「社会人」の態度・心根を,祖父の病室で接したごくわずかな時間に,私は勝見氏に見せ付けられた気がした.教えられたのではない.まさしく見せ付けられ,突き付けられたのだ.来年から社会人となる私は,そのことに愕然とした.少なくとも社会的な団体と交わりきた中で,私もそのような態度を多少は身に付けてきたつもりだった.しかし,それが完全な思い上がりであることを思い知らされた.そのわずかな時間の間で,勝見氏が信頼に足る人物であることを,私は直感した.祖父が信頼した理由がよく理解できた.
翌,告別式当日.私は,オートバックス住野社長の弔辞を耳にしながらも,漠然とした思いを胸に留めたに過ぎなかった.どのような祖父への讃辞も,所詮,私のイメージの領域を飛び出すことは無かったのである.
しかし,最後に行われた祖父への献花の折,勝見氏が目を真っ赤にしながら献花し,顔を伏せ,ほとんど逃げるように退出する姿を,私はコマ送りのような鮮明さで眺めていた.衝撃的だった.それは今回の式を通じ,初めて感じた,あまりに生々しい現実であった.一目で「できた」人であることを私に突きつけた勝見氏に,これほどまで惜しまれている祖父長和の死…….それはもはやイメージではなく現実であった.
(そうか.そうだったんだ……)
その時初めて涙が出た.祖父の人格に触れ,その祖父の遺体を見つめていることに涙が出た.家族であり,親族であるが故に,決して見られなかった祖父の姿を,勝見氏の献花によって初めて垣間見ることができた.勝見氏にそこまで尊敬されていた祖父が,一個の大人として,羨ましかった.私もかくありたいと強烈に願った.故人はその時,既に故人であった.遺骨となる直前であった.そのタイム・ラグは私を痛く戸惑わせ,それが涙と変わった.
* * *
蝋燭の火は,漸くその火勢を衰えさせ,その火はますます小さかった.二本目の線香が燃え尽き,恐らく最後であろう蝋燭の火を用い,三本目の線香へ暖を移した.時計は五時を過ぎた.新しい蝋燭は既に手元に用意されている.準備は全て整っていた.後は蝋燭の火が消えるのを待つばかりであった.線香の煙が薄い絹目を引いて,私にまとわりつく.一時消えかけた蝋燭の光は,なめらかなオレンヂ色の尾を引いて,水の上に浮いていた.豆粒のような焔だった.ジジッ……それは一瞬であった.今まで小さな種火を守り続けてきた蝋燭は,急にその火勢を弱め,静かに静かにうずくまっていった.小指の先ほどの青白い焔になった矢先,二度,三度,チョンチョンと揺れたかと思うと,フッとそれは掻き消えた.あっという間であった.私は伝え聞いていた祖父の逝去を思い浮かべた.同じような最後だったという.後には,残された僅かな芯から,白い煙が立つばかりであった.火は,消えた.
* * *
私はマッチを急いで擦った.私の手には,まだ新しい,つやつやした蝋燭が握られていた.マッチは激しく燃え上がった.それは確かに消えかかった焔とは違っていた.まさにこれから燃え上がろうとする焔であった.
私は,祖父の才能のかけらも無いことを,十二分に弁えている.才能に恵まれないことに悶絶し,下唇をギリギリと死ぬほど噛み締めたことも度々あった.しかし,祖父の誠実と真実の一部が,私の血の中に確かに流れていることを感じることがある.祖父の生き方の一部は,そのまま私の生き方であった.祖父の成功は,私の成功であった.私の中に流れる血が,それを私に教えた.悲しくは無かったが,虚しかった.
それは,まだ懸命に生きようとしていた祖父に対し,遂に言えない言葉であった.しかし,祖父を失い,勝見氏の姿を突き付けられた今,激しく叫びたい言葉であった.
私はやがて点くであろう真新しい焔のことを,鮮やかに思い描くことができた.一刻激しく燃え上がったマッチの焔は,やがて落ち着き,新しい蝋燭へと近付いていった.夜明けが近付いていた.
成功とは、富や名誉でなく、価値ある目標を立て、段階を経て邁進し達成することである
嶋 谷 長 和
