かんがえた…
人間性、夫婦、子供、理性、社会、倫理…色々な問題を考えた時、最後に行き着く結論が「人は人間であると同時に動物である」という二面性のように思います。つまり人間は 「理性で生きる動物…」なのではなく、「本能の中に理性を覚醒する動物…」
ではないかと思うのです。最近の人間らしい世の中で忘れさられがちですが、どこまでいっても理性の根底には動物としての本能がある。この矛盾とも思える二面性…が、人間の難しさでもあり、人間の奥ゆかしさでもあるように思います。私はこの概念を、高校時代に「人間動物論」と勝手に命名しました。

動物(本能)の根源的規律は弱肉強食。個人主義。力絶対主義。人間(理性)の根源的規律は共存共栄。価値相対主義…。動物として生まれ、本能の元で育とうとする子供に、全く次元の異なる理性を身に付けさせることが「教育・躾」ですから、これがいかに至難な行為であるかは容易に想像できます。ただ、肉体的に成長させるだけでは「教育」にならないのです。
とある自信家の子供が不良になった時、「子供くらい簡単に育てられると思った」と、その自信家は語ったそうですが、教育に対する認識違いも甚だしいと私は思うのです。

動物の本能とこれほどかけ離れた「理性による社会・秩序・平穏」を築きあげた人間は素晴らしい…と最近つくづく感じます。
そして、「理性に基づき、誰もが平穏に生活できる社会の確立」がいかに至難であるかは、そのまま、「理性」という働きが、人間の動物的本能といかにかけはなれた精神的働きであるかをよく証明していると思います。

しかし、冒頭で記したように、人は「理性で生きる動物…」なのではなく、「本能の中に理性を覚醒する動物…」です。私たちは動物なのですから、本能を消し去ることは出来ませんし、また消し去る必要もありません。
どうも理性的な人間は動物であることを極力否定する向きにあるようですが、それは正しくないと私は思います。動物であることを否定することは、自らの存在を否定することに他ならないからです。大事なことはTPO、本能と理性のバランス…に尽きるのではないでしょうか。
−−−
ただ言えることは,スレインは真の賢者だってことだ.知識だって豊富だし,古代王国の魔法にも精通している.しかし,あいつが本当に立派なのは,物事の真理を見抜いたうえで,表面に見えることだけを大切にして生きていくってことだとオレは思う.レイリアの心の傷を理解した上で,それがどうしました,と澄ました顔で言うような奴なんだ.
可笑しいことがあれば笑えばいい.怒りたければ,怒ればいい.一つの物事にこだわると,その他の物事が曇って見える.しかし,たとえ物事の真理が見えたとしても,それにこだわるあまり物事の表面に見えるものを見失うのは愚かなことだ.
<ロードス島戦記3,水野良,1990,角川スニーカー文庫

昔、医学がまだ発達していない頃、女性は子供を生むことに命がけでした。また、出生後の死亡率が高いため、多くの子をもうける必要がありました。
その時代に男性から「可愛い」と思われた女性は、子供をたくさん生んでも体を壊さない、ふくよかな体格を持つ女性でした。平安時代の美女がこれにあたります。当時、華奢な女性は生命力に乏しく頼りない存在と思われ、「可愛いさ」の対象にはなっていなかったようです。
ところが医学が進歩し、食生活が豊かになった現在。最早ふくよかさは「無用の長物」へと成り果てました。華奢な女性でも子は育ち、寧ろふくよかさは余計な異物(脂肪?)に過ぎなくなったのです。ですから男性は、スマートな女性に「可愛さ」を見出すようになりました。
昔、世がまだ混沌としていた頃、男性は文字通り身を挺して暴漢から家族を守る必要がありました。
その時代に女性から「かっこいい」とされた男性は、力強く、筋肉質で、たくましい体格を持つ男らしい男性でした。戦後の好男児、石原裕次郎がまさにこれにあたります。逆に華奢な男性は頼りない弱々しい存在に過ぎず「かっこよさ」の対象とはならなかったようです。
ところが治安がよくなり、知能が複雑高度化した現在。もはや力強さ・筋肉質は「無用の長物」へと成り果てました。華奢な男性でも家族は守れ、知性によって多くの収入を得ることが出来るようになりました。寧ろたくましさはむさ苦しい異物に過ぎなくなったのです。ですから女性は、中性的・ビジュアル的な男性に「かっこよさ」を見出すようになりました。
このように、異性に対し抱く「可愛い」「かっこいい」とは、潜在的に自分の子孫が守れ、家族の生活が守れる対象に対して生じるもので、自分の理性から発した意思ではなく、極めて本能的な働きかけによって決定するものだと思うのです。
(無論、上の記述が一般論に過ぎないことは認識していますが…。)

時々、熱烈な議論をけんかと混同する人がいます。しかし、熱烈な議論は、相互の意見を把握し高めあうために大切です。ある意味、夫婦生活で最も大切な行為かもしれません。
討議とけんかは全く性質の異なるものです。この二者の区別がつかない人と付き合うことは大変なことです。

人間として一番大事なことは「情理のバランスがとれていること」だと、つくづく感じます。深い真理(理)を探求する心を持ちながら、喜怒哀楽(情)に身を委ねる。
大事なときに感情論しか話せないのでは困りますし、理屈っぽい人は風流ではありません。情理のバランスをとるよう心がけたいものです。これは、冒頭で記した「人は「理性で生きる動物…」なのではなく、 「本能の中に理性を覚醒する動物…」」の別表現でもあります。
まぁ、夏目漱石も草枕の冒頭で同じことを述べていますから、所詮、人の受け売りなのですけど…

特に女性の中には、常に会話を交わしていないと落ち着かない方がいますが、沈黙の安らぎほど心の落ち着くものはありません。隣に最愛の人の存在を意識する…ただそれだけで、心は十分に満たされます。言葉を交わすことも大切ですが、それと同様に沈黙も大切にしたいものです。

極論ですが、一つの一般論として人は「自分に対し、より近い存在から犠牲にする」タイプと、「自分に対し、より遠い存在から犠牲にする」タイプに分かれると思います。
例えば会社で誰かがしなければいけない残業が発生した場合、進んでそれを引き受け、家に帰る時間を(家族を)犠牲にするタイプと、進んで残業を辞退し、急いで家族の元へ帰るタイプです。
無論、シチュエーションによりどちらの選択肢もあり得ますが、それでも「出来る限り残業を優先する」タイプと「出来る限り帰宅を優先する」タイプでは、根底にある基本スタンスが異なると思います。
どちらがいい悪いではないですが、夫婦でこのような思想的根本が食い違うと、本当の理解は不可能なように思われます。これは夫婦にとって、趣味が合う合わない…などよりも遥かに本質的な問題ではないかと思うのです。

私個人の話をすれば、上の前者の考え方に近いですから、多分夫婦での時間は少なくなるでしょう。しかし、夫婦は夫婦でしか持ち得ない貴重な時間があり、これを、費やす時間の多寡で量ることはおかしいと思います。
夜の営みは、まさに夫婦にしか持ち得ない深遠な時間であって、単なる性的要求を満足させる本能的営みだけに終わらせてしまっては勿体ない…そう、思います。

生活習慣も思想体系も異なる人間同士が一つ屋根の下に生活するのですから、最初からスムーズにいくはずがありません。結婚とは本質的には苦しいものだと思います。だからこそ、その「苦しさ」を認め、許し合う寛容さが必要で、その苦しさを乗り越えた先に幸せを見出すのでしょう。

一般的に「結婚相手はしょせん他人だから、違いがあって当り前」と言われますが、一体、結婚相手とは、何がどれくらい違うものなのでしょうか?
動物的な部分でみれば、性別が違う、まずこれだけでも十分すぎるほどに「違い」ます。その上に人間的な部分でも育った経済環境が違う、家庭環境が違う。さらに性格も違う、趣味も違う、思想も違う、性癖も違う…何もかもが違う。「この人とは色々あうな…」と感じたとしても、それはむしろ奇跡に近いくらいのわずかながらの共通点に過ぎないのが真実なのです。これはもう、結婚相手が同じ人間である…という前提自体を否定したほうが良いくらいの「違い」です。結婚相手が人間でないなら一体何なのか?…それは「異星人」です。別に異性のことを否定したり、見下したりしているのではありません。単に、結婚する相手は、それくらいに何もかもが違うという事実をキッチリ認識する必要がある…ということなのです。
では、それくらい相手が「違う」中でどのようにして結婚相手を選べばよいのでしょうか。それは簡単です。自分が「ここだけが違ってしまうと、絶対に受け入れられない!」という自分として絶対譲れないポイントを最大でも3つに絞り込むことです。結婚相手に求めるのはその3点だけでよいのです。いや、それ以上に求めてはいけないのです。なぜなら繰り返しますが、相手は「異星人」なのですから。
性格・思想・信念・趣味・習慣・見てくれ(体形)・夜の営みの相性…諸々の中から自分が真に大切に考えていることを思い浮かべ、それにさらに優先順位を付け、「自分が本当に大切にしているものは何なんだろう…」と深く深く追求していく。それこそが結婚相手探しにおいて最も大切なプロセスなのです。
つまり、結婚相手を探す…という作業は、実は相手の異性を探すことではなく、自分自身を探すことに他ならないのです!
少し抽象的でしたので、ここからはパインヒルの実例を紹介しましょう。パインヒルは中〜高校生くらいから結婚に興味を持ち、結婚について色々な本を読み、上記のことなどについても色々と考えてきました。そして考えに考え、自己探索を重ねた結果、私の譲れないポイントを以下の3つに絞り込んだのです。
@お金に対する考え方…極端に言えば、散財派か貯蓄派か(実際にはもっと様々な形態がありますが)という点で、パインヒルは基本的に貯蓄派です。さらにパインヒルは一切ローンをしません。家も含め、これまでの購入物はすべて現金で購入してきました。ここなども相手と考え方が違ってしまうと、根本的に受け入れることができなくなってしまいます。
A子供の教育に対する考え方…極端に言えば、詰込派か放任派か (実際にはもっと様々な形態がありますが)という点で、パインヒルは基本的に放任派です。個人的に「子供への教育のあり方」についても高校生くらいからこだわりをもって様々なことを考えてきましたので、ここもどうしても違いを認めることができない部分なのです。
B身内と他人との優先順位…生死に関わる緊急時や特別な時は除き、基本的な考え方として、身内と他人のどちらを優先して考えるか…という点です。架空の例で言えば、嫁と会社の同僚から同時に「ねぇ、ちょっと話を聞いて」といわれた時、どちらを優先するか…ということです。パインヒルは自分からから遠い側を優先する考えですので、この例で言えば同僚の話をまず聞くことになります。ここでもし「なんであなたは嫁である私を優先してくれないの?」となる人は受け入れられない…ということです。(その理由は2つ上の章「時間の長さと、時間の重さ」に記した通りです。)
パインヒルは今の嫁とわずか1ヶ月の間に2回会うだけで結婚を決めました。この「たった1ヶ月、2回会っただけ」で結婚を決められたのは、事前の自分探しが十分にできており、相手に求めたいものを十分に整理していたからなのです。もちろん相手(つまり今の嫁)に上のような不躾な質問はしませんが、上の3点に関わる質問を色々とし、そこが合致することを確認できたため、2回目でプロポーズに至った次第なのです
ということで、現在結婚相手を探している方はぜひ、相手探してでなく、まず自分探しをしてみて下さい(^^)。いざ考えてみると、整理できているようで整理できていないことに気づきますよ!

よく、恋人や結婚相手に対し「あの人の〜が嫌」と思うときがあります。たとえば「あの人の笑い方が嫌」とか、「彼女の箸の持ち方が嫌」などなど。でも、実際はそうではないのです。そのように感じるあなたは、実は「あの人の笑い方」や「箸の持ち方」が嫌いな訳ではないのです。
「あばたもえくぼ」ということわざをご存知でしょうか。これは「顔にできてしまったあばた(あざみたいなもの)も、好きな人であれば寧ろそれがチャームポイントとなってえくぼのように可愛らしく見えるものだ」という意味です。また、この反対のことわざとして「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というものもあります。これはお坊さんが嫌いな人にはお坊さんが着ている袈裟まで全て嫌いに思えてしまう…という意味です。いずれのことわざも「あなたの心の持ちよう一つで、物の見え方はだいぶ変わってくるものだ」ということを我々に教えてくれています。あなたの「あの人の笑い方が嫌」とか、「彼女の箸の持ち方が嫌」というのもこの「あばたもえくぼ」「坊主憎けりゃ…」そのものなのです。
つまり、本当のあなたは相手の「笑い方」や「箸の持ち方」などではなく、相手のもっと本質的な何かをそもそも受け入れられていないのです。ですから、諸事様々なことまで一つ一つが気になってしまうのです。もしこれが全幅に信頼している相手だったらそれこそ「あばたもえくぼ」であなたの気にかかることも無いでしょう。寧ろ「この人にも可愛らしいところがある」として笑って流せるはずです。
だからこそ上の章「結婚とは相手探しでなく自分探し」で述べた、「自分として絶対に譲れないもの」が大事になってくるのです。あなたが絶対譲れないことが恋人・結婚相手と食い違ってしまったら、あなたはもう相手を心から受け入れることが出来なくなるでしょう。そうなると「坊主憎けりゃ」が発動され、それはもう、日常生活の相手のあらゆる行ないが全て「袈裟」だらけに見えてくるのです。これはとても悲惨なことです。逆に、例え異星人であっても、本質的なところさえ共有できている相手であれば、日常が「えくぼ」だらけになるのです。
この意味から、いかに結婚相手を探す時に「自分が譲れないもの」を考える「自己探索」が欠かせないか、ご理解いただけるのではないでしょうか。

大人に「大人にしか出来ない」役割があるように、子供にも「子供にしか出来ない」役割があります。教育とは、まだ子供のステップにある子供に無理やり大人の役割を演ずるよう強要することではなく、大人になった時には大人の果たすべき役割がある…ということを自分の態度で実践し、悟らすことだと思っています。

世の中には必要以上のものがたくさんあります。生活習慣や惰性、一般的な常識で、本来必要の無いものに無駄な費用をかけていることがあります。例えば、シェービングクリーム、高校までは当り前のように使っていましたが、余計な商品であることに気づき、使用を止めました。石鹸で十分なことに気がついたからです。
また、自家用車。一人暮らしに車は不要です。まるで駐車場代と税金を払うためだけに所有しているようなものです。税金や車検まで含めた計算の結果、週に4回以上車に乗る場合のみ自家用車の方が安くなることが分かりました。当然、週に4回も車には乗りません。だからレンタカー屋が近くにあればそれで十分…私はそう考え、レンタカー屋がある近くを選んで生活しています。
皆さんも、世の中の「常識もどき」に騙されず、一度、身の周りのものを冷静に見渡してみてはいかがでしょうか。案外、「常識」という名の元で企業の宣伝に踊らされている製品が多いことに気がつきますよ。大事な大事なお金ですから、ざわざ企業にプレゼントするのは勿体ない…と思いませんか?

学歴・地位・名誉・収入…これらは自分の様々な行いの結果返ってくる結果(アウトプット)に過ぎません。よく、これらを自らの行いの目的にしてしまう人を見かけますが、それは本末転倒です。
えてして、これらを目的として人を育ててしまうと、人間性に欠けた打算的・機械的・自己中心的な人間になる可能性が高いように感じます。

そもそも、「偉くなる」とはどういうことなのでしょう。よく、地位の高い人、学歴のある人を指して「偉い人」ということがありますが、一体、何が「偉い」のでしょう。先に述べたように、人の人たる由縁は様々な価値観を相互に認められることにあります。動物のように力の強いものが全ての世界ではありません。ならば、「偉さ」という価値観も人それぞれ分だけあって、いいですよね。

戦国初期から末期にかけ、能阿弥から珠光、そして竹野紹鴎から千利休へと引き継がれた茶道の精神は大変素晴らしいと思います。一期一会で有名な茶道の精神は、戦国の階級差別の激しき折に「人間の尊厳」について堂々と押し出しているのです。お茶の前では、皆一人の人間に過ぎない…と。
はいつくばるが語源となっている「つくばい」、大名といえども頭を下げねば入れない「にじり口」、そして何より一切の無駄を省き、人が居座るのに必要な最低限の寸法・設備しか持たない「数奇屋建設」…あの上下差別激しき時代に、よくぞそこまで「人間の尊厳」を主張し得たものだと深く感動し、また深く共感する次第です。

「その人の価値は、死ぬまでにどれほど多くのものを得たかではなく、どれほど多くものを与えたかによって決まる」…これを地で行くことは至難ですが、本当にその通りですよね。深く深く納得します。

戦前までの日本は、男性(夫)の役割と女性(妻)の役割がはっきり分かれていました。ですから、誰と結婚しても、昔から定められた役割を互いに果たせばそれよかったのです。
しかし戦後、価値観の多様化と共に、女性の社会進出が進み、相互の役割が流動的になってきています。そのこと自体は心から歓迎すべきことですが、反面相手がどんな役廻りを望んでいるか慎重に確かめなければいけない時代になりました。昔ながらの主婦像を求める男性が、キャリアウーマンの女性と結婚することは悲劇でしょう。
ただ、大きな流れとして、今後は「力仕事は男性の仕事」「男児は厨房に入らず」…といった時代ではなくなるのでしょうね。

私は大きく3つの生活の場があると考えています。それは、@社会の最小単位である家庭A家庭を維持するための収入を担保する会社Bそして会社以外の社会全般。私たちの生活は常にこの3つの場を行き来しているわけですが、人によりそのウェイトは異なります。家族的な方・収入の多い人は@に、仕事の好きな人・収入の少ない人はAに、そして社会的活動(ボランティアやNGO・NPOなど)の好きな人・特別な意識のある人はBに。私も@ABのバランスのあり方について良く考えます。もし夫婦でこのバランスの価値観が違うなら…話し合うしかないのでしょうね。

以前、小学生の低学年の生徒たちに「地球温暖化問題」について説明したことがあります。その時、子供たちに色々質問すると、「ハイハイハイハイ!知ってる!知ってる!」と威勢よい答えが返ってきました。実際、子供たちは温室効果ガス、二酸化炭素、地球温暖化…色々な言葉をよく知っています。でも当然、子供達は個々の「単語」を知っているだけで、それらの繋がり、関係性、それによって生じる問題など、深い部分については全く理解していませんでした。
無論、私がここで、このような子供たちの知識水準についてどうこう言いたいのではありません。小学生はそのレベルで当たり前ですし、寧ろ、単語だけでも良く知っていることに驚き、子供達を大いに褒めてあげたものでした。
私が高校生時代のころ、丁度素晴らしい先生達に恵まれ、生きる意味や自分のあり方について真剣に考え始めた時期がありました。その時によく、こんなことを考えたものです。「これだけ長い歴史を持つ人間が、何で同じミスを犯し、同じ過ちを犯すのだろうか…。世界のどこかに、人が一人亡くなるときに、その人の一番大切に感じた教訓を綴っていく場を作れば、その教訓を読むだけで立派な人間だらけになって、同じ過ちを繰り返すことなどないのではないか…」と…。今考えれば、非常に浅はかな愚かな話ですが、当時は真剣にそんなことを考えていたのです。
いや、既に世の中にそんなものはいくらでも転がっています。「箴言集」なり「名言集」という名前で、ノウハウ本よろしく、本屋に腐るほど積み上げられています。それでも世の中はちっとも変わろうとはしません。
「知る」という動作は簡単です。一度そのものに接すれば、一度そのものを耳にすれば、もうそれだけで「知っている」ことになります。例えば、聖書に出てくる「汝の隣人を愛せよ」という言葉を知らない人は恐らく一人もいないでしょう。しかし、その言葉の意味を咀嚼し、理解し、本当に自分の血肉となるまで昇華している人…分かっている人…はほとんどいないのが現実です。
それには気の遠くなるほどの多くの時間と経験と葛藤を味わわなければいけません。その非常に難しい…いや…、難しいなどと生易しい言葉を使うことすらおこがましい、至難の道程を歩ききったものだけが、初めて「分かってる」と言うことが出来るような気がするのです。
しかし、愚かにも私達は、物事を「知る」と、それでもう「分かった」気がしてしまいます。それはまさに冒頭で述べた子供達が「知ってる!知ってる!」と叫ぶのと同じ次元なのです。箴言集・名言集を読むと、それでもう立派な人間になった気がする…。しかし、実際はそうではありません。人間一人が一所懸命生きて、苦しんで、懊悩してきた…その結果生み出された珠玉の箴言・名言が、スッと身体に入るはずがないのです。
「知る」と「分かる」のはざまには、薄くて真透明なアクリルのような壁が存在するのです。そして、その壁が余りに薄く透明なため、人は時に「知る」だけで「分かった」と錯覚してしまいがちです。しかし、それは大きな思い上がりでしょう。実はそのアクリルのような壁は非常に非常に強固なのです。その強固な壁を打ち破り、真の理解の世界へ行くには、生半の努力では済みません。
人はですから、分かっているようで同じ過ちを何度も何度も繰り返し…、でも、ほんの少しずつ賢くなっていくものなのではないでしょうか。

「有難う」「ゴメンナサイ」など、他人へ思いを伝える言葉に、皆さんは常日頃どれだけの真実と誠意を込めて言っているでしょうか。例えば、こんな話があります。
学生時代、私のサークル仲間にすごく調子のよいAという人間がいました。その人はいつも笑顔で「有難う」「悪い悪い」を連発する人間でした。ですから周りの仲間の受けは決して悪くなかったようです。しかし、私はどうも彼の言葉に白々しいものを感じてなりませんでした。
そんなある日、私達のサークルでイベントを行い、その打ち上げを行うことになりました。皆、イベントでクタクタに疲れ果て、お腹も腹と背中の皮がくっつきそうなくらいにすいていました。ですから、打ち上げがスタートすると同時に、用意してあった食べ物は瞬く間に仲間の胃袋へと消えていきました。皆、本当にお腹がすいていたのです。ただその時、私も含め仲間の誰一人としてある事実に気づいていませんでした。それはつまり、仲間の一人が、まだ残務処理に追われ、その打ち上げに参加できていない…という事実だったのです…
やがて、食べ物が全て私たちの胃袋におさまり、やっと人心地がつきかけた頃、その遅れた仲間がやってきました。当然、残務処理で走り回っていた訳ですら、彼は、私達以上にお腹をすかしていたはずです。しかし、その時食べ物はもう、本当に何もかも無くなっていたのです。
その時彼は、「あ〜食い物が無い!俺も食いたかった!!」と本当に本当に悔しそうに辛そうに叫びました。彼は本当に辛かったはずです。自分のことがすっかり忘れさられ、食べ物が何一つ残されていなかったのですから…。
せきひとつ出ない、とはまさにこの時の言葉でした。瞬時にして、私たちは自分達のしでかした失敗に気付いたのです。とりかえしのつかないことをしてしまった…そんな雰囲気でした。一瞬あたりに異様な静寂が走りました。そんな時、Aが何事もないように口を開いたのです。「いや〜ゴメン、ゴメン」そして、あろうことか顔がニコニコ笑っているのです。その時私は、心が急に凍りつくのを感じました。やはりこいつは…そう思ったのです。
誰がこのようなシチュエーションを前にして気軽に謝れるでしょうか。誰がこのようなシチュエーションを前にして気安く笑えるでしょうか。謝っても胃袋に入った食べ物はもう二度と戻ってきません。そして、遅れてきた彼はそれを本当に本当に悲しんでいるのです。けれどAは、その相手の辛さの度合いを全く感じとることが出来なかったのです。
そしていつものように、相手に悪いことをしたと感じるときには「ワルイ、ワルイ」と言うものだ。相手がよくしてくれた感じた時は「アリガトウ」と言うものだ…という、パブロフの犬程度で、ワルイ、ワルイを連発していたのです。
ですから、他の人が「ごめん」とすら言えずシュンと俯いている中、彼一人だけが無慈悲にも「やぁ、ワルイワルイ」と笑っていれたのでしょう。私はそんなAを見て、以後Aの言葉に対して心を閉ざすようになりました。
私たちは普段、言葉を交わすことでコミュニケーションをしています。その日常的に遣われる言葉だからこそ、私は大切に大切にしたいと思うのです。全く感情の伴わない無味乾燥な口先だけの謝辞、全く敬意の伴わない口だけの敬語、感情が無く、単なる枕詞と化している「忙しいところゴメン、今大丈夫?」の言葉…
会社の中ではそんなやり取りをよく見ることがあります。しかし、私はそんな光景を見ると、心がシンと冷えるのです。言われた相手はそれで本当に嬉しいのだろうか…これが本当に人間のやり取りなのだろうか…そう思ってしまうからです。
例えば「忙しいところをゴメン」と本当に思っているのなら、ありとあらゆることを自分で調べ、相手にとらせる時間を極力少なくしてから、しかも一度にまとめて質問するのが当然の姿でしょう。少なくとも私は、普段からできるだけそうするように心がけています。そして、「こういう疑問に対して〜でここまで調べたんだけど、後、ここが分からないから教えて」と聞くよう心がけています。
しかし、実際は、自分で何も調べず、また、何度も何度も「忙しいところをゴメン」と言って電話をかけている人を見受けます。私はそういう人を見ると、心がシンとしてしまうのです。
ちなみに、Aの話を当時の友人に話したところ、「マツリン(当時のあだ名)は怖いな〜。よう、人のことを観察しとる。でも、普通の人にそこまで求めるのは酷なんじゃない?」と言われました。が、さて、皆さんはどう思われすか?

今私は、家賃29,000円の賃貸住宅に住んでいます。1DK(6畳2間)で築20年のこじんまりとしたアパートで、道から少し入った袋小路を囲むように同じようなアパートが6棟並んで建っています。そのどれも家賃が安いですから、道から袋小路に入るということは、この安いアパート郡の住人であることを証明するようなものです。さて、その家のことで、面白いことがありました。
本日、たまたま家の帰りがけ、それもまさにその袋小路に入ろうとした瞬間に、一人の若い女性とすれ違いました。当然、彼女はこの袋小路に縁がありませんから、そのまま通り過ぎようとしています。恐らく、このアパート郡に隣接して建つ中級(高級?)賃貸マンションの住人なのでしょう。
それまでは、別に何ということもない日常的な光景でしたが、問題はその後に起こりました。私とすれ違った瞬間、彼女は袋小路の方へチラッと一瞥をくれました。そしてその顔にはっきりと侮蔑の表情が浮かんでいたのです。あぁ… (あるいは私の勘違いかもしれませんけど…)
この時私は、家を斡旋して下さった、ほぼ同年齢の不動産屋さんの言葉をフッと思い出しました。「正直、松岡さんくらいのレベルなら、もっといい所を探された方がいいと思いますよ。」
本当にくだらないなぁ…と思います。多く自らを磨くすべを知らず、だからこそ「服装」「みてくれ」「世間体」だけ一所懸命ブランド化しようとする存在…。私はクリスチャンではありませんが、三浦光世氏(作家、三浦綾子氏のご主人)のこの歌をとても気に入っています。
「吾を引取り育てし貧しき農の家
聖書ありき聖画ありき聖歌ありき」
(聖書が駄目な方であれば、論語でも新聞でもよいのです。)
本当に大事なことは、「みてくれ」や「社会体」や「金銭的裕福」などではなく、己がどのような心持ちを持ち、どのような精神で生きるか…という「精神的裕福」さではないでしょうか。
無論、それを求めた上で、外見上・金銭上のブランドを求めることは問題ないですが、ともすると「精神性」がなおざりにされてしまうように思います。

私は、大学時代まで、「自分が好きか・嫌いか」よく分かりませんでした。いくら「自分を好きになりなさい」…と言われても、性格的・能力的に愛想をつかすことが多すぎて、到底自分を受け入れることができませんでした。
でも、決して自分が「嫌い」な訳ではない…。一体、何なのだろう…。もやもやとした何か訳の分からぬ禅問答をしているようで、いつも思考を停止してしまうのです。いえ、答えははっきり分かっているのですが、その気持ちをはっきり表す言葉が見つからなかったのです。
ところが、ある日、その答え(言葉)は唐突に見つかりました。
「自分が嫌いな自分が好き!」…これこそがまさに得たかった結論だったのです。
つまり、私にとって「自分が嫌い」ということは、「自分ならもっと出来るはず。何故、お前(自分)はそんなことで失敗したんだ!愚か者め!」という、自分をより高めたい気持ちの裏返しからくる「嫌いさ」だったのです。「自分はもっとやりたい!自分はもっとよい人間になりたい!」という願いと、冷徹に突き付けられてしまう現状との著しいギャップ…。そのあまりの落差…。これが、現実の自分をとことん否定してしまう…「自己否定・自己嫌悪」の原因だったのです。
でも、待てよ?本当にそうだろうか?…私は考えました。もし仮に、今の自分にすっかり満足し自分を大好きになってしまうと…、もうこれ以上の成長も進歩もなくなってしまうのではないか?。果たしてそんな自分を自分は好きになれるのだろうか?否、それは絶対に無理でした。好きになれるはずがなかったのです。
結局、私は自分を素直に誉めることにしたのです。今の現状に満足せず、もっとよい方向を目指したい…と願っているが故に、現在の自分をとことん否定・拒否してしまう自分を…。
だからそれは、
「自分が大好き」…なのではなく、
「自分が大嫌い」と思う…自分をまだ見捨てていないそんな自分…が、大好き、だったのです。
====================================
PS.上記の考えは、大学時代に塾のバイト先で他の講師の面々と討論した際の要約…となっています。当時、「自分を肯定した方が伸びる子と、自分を否定した方が伸びる子がいる」…また、別表現では、「自分の長所をより大きく伸ばすことで伸びる子と、自分の欠点を一個一個つぶしていくことで伸びる子がある」…といった議論の中でまとまった考えのひとつでした。
それをフッと出張帰りの機内で思い出し、ここにまとめたものです。恐らく、機内で読んでいた三浦綾子氏の「道ありき」の中に教育の話が出てきたので思い出したのでしょう…

三浦綾子氏の作品を読み始めた高校くらいだったでしょうか。自分は「いい人」になりたい。でもその「いい人」とは一体どのような人のことを言うのだろう…と真剣に悩んだことがあります。
単純に考えると、まず「殺人や悪口など、人としてやってはいけないことをやらない」のが、いい人の前提条件だと思います。しかし「A君がやっているような悪いことは、私はしない」という見方をしてしまうと、それは既に他人を差別した扱いになってしまいます。こんな考え方をする人が「いい人」とはとても思えません。
自分が悪いことをしない…という考えまでは間違っていませんが、そこに、A君がやっているような悪いことをしない…という理屈が入る込むと、途端に思想が差別的になる…比較してしまう…。
つまり、絶対的基準・見方・行動をする範囲内では「いい人」であるけれど、ここに少しでも相対的基準・見方・行動が入り込むと、既にその時点で「いい人」とは言えなくなるような気がしたのです。
しかし、人間は大方周りの人間と比較して相対的に生活しています。ですから、絶対的な尺度で物事を考え、行動を起こすことは非常に困難です。不可能に近いかもしれません。ですから、「いい人」になりたい…と純粋に思い、本人はそのつもりでいても、それはいつしか相対的になり、比較的・差別的になり、それが他人への蔑視や侮蔑、尊厳の軽視また自分への慢心・誇りを生み、いつの間にか自分でも気付かない内に「悪い人」になってしまっている…こういうパターンに陥りやすいように思うのです。

上の話に繋がる話として、「正義の凶々しさ…」という言葉があります。
物事が正しい内容であればあるほど、相手にとっては反論の余地が少なくなることを意味します。つまり、正論を語ることで、全く後がないところまで相手を追い込んでしまうことになるのです。ですから、正しい正論を相手に強く押し付けてしまうと、相手は逃げ場が無くなり、結局やけを起こすか、自滅するしか方法が残されなくなります。これなど先の「良いことをしているつもりが、結果として相手を追い詰め苦しめてしまっている」ことの良い事例でしょう。
これを、「凶々しさ…」という言葉で表現した方はすごいと思います。正義というものは実は非常に非人情的で脅迫的なものなんだ…そう言いたかったのでしょう。
人に対して注意するとき、相手が既に分かって反省していることを注意してしまうと、相手を逆切れさせてしまう…というのがまさにこの例ですね。本人が一番「あぁ、悪いことをしたな」と思っているのですから、分かりきった正論を押し付けてしまうと、「正義の凶々しさ…」で相手をひどく傷つけてしまうことになります。これでは逆切れされても仕方ないですね。

小学時代から「歴史」に興味があったため、よく日本や中国の歴史本を読んでいました。その時、つくづく不思議に感じていたことがありました。それは、
「何故、永遠に続く国家というものが存在しないのだろう?」
ということでした。どの国家の創始者も、その国家を短命のものとして終らすつもりはなかったはずです。永遠に続くように…そう、願いを込めて国家を創始したはずです。しかし、それにも関わらず、2〜3世紀のスパンで国家がどんどん変化していってしまう…
それを昔の私は、「国(組織)の作り方が悪いからそうなるんだ」と、何とも稚拙な考えで結論付けていました。そして、国を永遠に存続させるためのシステム(組織)とは、一体、どんなものだろう…そんなことを真剣に考えていました。
どの時代でも、やがて不当な権力を持つ人間が現れて、その権力に押し流されて国が滅びていく…とすれば、どんなことをしても一人の人間に権力が偏らないような仕組みを作れば、国家は永続するのではないか…そんなことも考えていました。
つまり、当時の私はまだまだ幼く、「変化しない絶対的なもの」が世の万物を支配する摂理からいかにかけ離れているか気付くことが出来なかったのです。
しかし、段々大人になるにつれ、「変化しない絶対的なもの」などあり得ないことが少しずつ理解できるようになりました。それは大陸プレートレベルの大循環から、小さな生態系の連鎖に至るまで、世の中が「変化」こそが常であり、寧ろ、恒常性・永遠性を求めることが「異常」であることに気付いたのです。それは様々なレベル・次元において為される「(観念的)新陳代謝」ともいえるでしょう。
それでも、恒常性・永遠性を求めてしまうのが人間という存在であることは理解できます。いわば、今までの歴史は、自然の摂理に対する人間の反駁の歴史ともいえるでしょう。しかし、自然の摂理が「新陳代謝」である以上、その「恒常性・永遠性」はいつか壊れるものであることを認識すべきなのでしょう。
実は、私が未だに教会へ足を踏み入れられない、その一番の原因がここにあるのです。

三浦綾子氏のエッセーの中に、「仏教もキリスト教も”虚無”が出発点になっている…」といった文章が記述されています。そして、私も宗教の出発点とは基本的に”虚無”だと思っています。上記文章の続きではないですが、常に変化し続けていく自然の中にあっては、人間にとって都合の良い変化ばかりが続くはずがありません。特に自らを守るすべをしらなかった昔の人々にとって、自然の恒常的な変化たる天変地異は、まさに自らの生命を脅かす危険な変化だったに違いありません。
そんな中で思考力を持った人間が、「何故こんな苦しい目に遭うのか」「少しでもこのような苦しい目にあわないようにするにはどうすればよいか」ということを考え始めたことは自然の成り行きとも言えるでしょう。
こうして、技術・哲学・宗教…あらゆる分野において人間は活動領域を拡大していくことになるのですが…
さて、特に宗教において、出発点が同じだった仏教とキリスト教ですが、行き着いた先は全く逆であった…と、私は認識しています。すなわち、「変化こそが自然であり、中庸の精神を持ち、諸行無常であることを理解し、様々な固執・煩悩に捉われてはいけない…」と、謳った仏教に対し、「世の中の様々な変化は、実は、その上位なる絶対神によって意図的につくりだされたものである。よって、神を信じることでのみ変化せぬ永遠の世界を手に入れることができる」と謳ったキリスト教。
永遠の居場所、永遠の食料、永遠の生命…という変化を好まない人間の願望に対し、激烈な変化を続ける自然。この相互矛盾を解決する道として、仏教は「永遠」という考え自体がおかしい。常に変化することを悟りなさい…と言ったのに対し、キリスト教は、変化の更に上位に「永遠」はある…と言ったのです。これほど対照的な考え方はないのでないか…と、私は思うのです。
その対照性を端的にあらわしているのが、「永遠の命」に対する両者の考え方の違いでしょう。すなわち、世の中は全てが変化しており、姿・形は常に変化していくが、その中で魂を持続させることができる…とした仏教の「輪廻転生」という考え方に対し、唯一神を信じれば、本来変化すべき姿・形がそのままの状態にして生き返ることができる…としたキリスト教の「復活」という考え方。この面白いまでの対照性。変化と不変…。
特に仏教の本を読んでいると、哲学との境目が分からなくなってきますが、実際「神という、抽象的概念を用いていない」意味では、仏教はひとつの哲学なのだと私は思います。それに対し、キリスト教は「絶対性を重んじ、絶対性を説明するために神という概念を持ち出した」時点で、哲学ではなく、純粋に宗教だと思うのです。(もっとも仏教も、釈迦が生んだ哲学的思想にインド古来から伝わる宗教要素が加わって、結局は哲学でなく宗教になってしまいましたが。)
そして、私は自然の成り立ちや動物生態学をそこそこ勉強してきた関係で、どうしても変化しない永遠性というものを白々しく感じてしまうのです。「風の谷のナウシカ」の中で腐海の謎について議論されたとき、「森の人」はこう言いました。「目的のある生態系…それ自体が自然にそぐいません。私達の生命は風や音のようなもの…… 生まれ ひびきあい 消えていく.」そう、本来、生命そのものには目的が無いのです。風や音のように、明滅を繰り返すもの…それこそが生命だと、動物生態学は教えてくれます。その中にあって人間のみが永遠性・絶対性を望むことの違和感…。だからこそ、キリスト教は神という概念を作り出さねば、この矛盾を止揚(アウフヘーベン)できなかったのでしょう。
しかしながら、人間はそれほど強い存在ではありません。いくら「変化するもの」と悟っても、肉親の死はつらいですし、事故は憎いですし、自然災害は怖い…。人間はなかなかそこまで強くなれません。全ての変化をそのままに受け入れるのが、仏教でいうところの「悟り」なのでしょうが、普通の人間はそこまでたどり着くことができません。だから、何かにすがるものとして、「永遠の命」「永遠の安らぎ」の象徴として神が必要となる…。そこに神の存在価値が見出される。これは素直に理解することができます。
そして、私がまだ大きな悲劇的変化を経験したことが無いために、こんな偉そうなことが言えるのでしょうけれど、基本的に弱い存在である人間にとって、「すがりつくことのできる」存在は必要なんだと、そうも思えるのです。

物事や状況を判断するとき、本当に必要な能力は、徹底的に…それは冷徹なほどに…事実と直面し、事実を事実として認定することだと考えています。そこに自己中心的な甘い贔屓目や悲惨な現状からの無意識の逃避があると、全ての方向性が狂ってしまいます。誰でも己の弱点や欠点と向き合うことは難しいですが、欠かすことの出来ない要素だと思います。

私が通っていた高校は、皆、いわゆる偏差値の良い人間が集まっていました。(無論、私のような例外はともかくとして…これは謙遜でも何でもなく、事実、高校に入ってからの私の成績はいつも最悪でした…)しかし、「頭の良さって何だろう…」と考えさせられてしまう、こんなことがありました。
それは体育祭の騎馬戦のときの話です。確か3チームの総当たり戦だったと思いますが、私の所属したチームは1回戦で相手チームに圧勝し、2回戦もこの勢いで勝つのだと意気込んでいました。
その1回戦を勝利に導いた戦法とは、とにかく敵の大将に目標を一点集中し、中央突破しひたすら錐のように細くするどく突撃する…という単純なものでした。
そして、いざ2回戦に移ろうというときになって、チームの雰囲気が「さっきと同じ戦法で行くぞ!」…という流れになったので、私は本当にびっくりしました。「そんな馬鹿な!」と思ったのです。だって私たちの1回戦の戦い方を今回の相手チームは一度見ている訳です。相手だって馬鹿じゃないですから、絶対に対抗策を考えているはずではないですか!同じ戦法が2度も通じるほど馬鹿じゃないはずです。
ですから私は、一生懸命「同じ戦法でいっても絶対勝てない!遊撃部隊をつくって左右から回り込ませねば突撃は阻まれる!」と周囲の仲間に一生懸命話しました。もし私だったら、大将の前に犠牲となる騎馬を盾のように配置し、大将を援護する…と思ったのです。ですから、それを回避するには、機動部隊で両サイドからえぐるしかない…と。
しかし、それに対する反応は本当に冷たいものでした。「さっきもこの戦法で圧勝したじゃないか!つまらないことを言ってせっかくの雰囲気に水を差すな!」そんな感じでした。
そのとき私の心はしんと冷えていました。太平洋戦争の時もきっとこんな感じだったんだろう…そう思ったのです。最初の緒戦に勝ったあまり頭が熱くなってしまって、現在の状況を分析することが出来ない…ひたすら同じことを繰り返していく…そしてその先に待つものは…。
それでも私は引き下がりませんでした。私だって勝負をする以上は勝ちたいですから…。そこで自チームの大将の所へ行って懇願しました。「せめて2〜3騎の遊撃部隊をつくって回りから回り込ませてくれ!」と。結局大将はその意義を分かってくれましたが、もう時間が無く、遊撃隊の趣旨が十分伝わるまでに2回戦は始まってしまいました。
果たして結果は、見事なまでの完敗でした。まるで絵に描いたような見事な負け方でした。やはり敵は、前回の私達の作戦を見て、捨て身の壁を大将の前に配置したのです。錐のような突撃隊は、その捨て身の壁に完全に阻まれ、大将の所へ一歩も近づくことが出来ませんでした。
2回戦直前に編成した遊撃隊がかろうじて壁を迂回し敵大将まで辿り着いた時は、既に自チームの大将が倒されていました。時、すでに遅かったのです。
華々しい1回戦とは裏腹のみじめな惨敗でした。後で大将から「もっと早くお前の言葉を聞いておけばよかったな。スマンかった」と謝られ「まぁ、終ったことはしょうがないよ。」と答えましたが、私は「頭の良さ」とは何なのか…つくづく考えさせられたものです。
また、こんなこともありました。
それから時が流れ、私は受験生として、ある大学へ受験しに行きました。そして試験は中休みとなり皆受験生達がトイレへと殺到していきます。
「何でだろう???」私はそんな彼らを見て本当に疑問に思いました。だって、大学が試験会場なのですから、トイレはその階以外にもたくさんあるではないですか。それなのに、彼らは長い行列をつくって試験会場と同じ階にあるトイレに並んでいるのです。
私はひとつ上の階に行ったのですが、そこのトイレはガラガラでした。そして戻ってきても彼らはまだ長い行列をつくっていました。もしかしたら私が注意を聞いてなかったのかな?と思い、試験監督に、「この階以外のトイレは使っていけなかったのですか?」と尋ねたのですが、やはりあっさりと否定の言葉が返ってきました。
結局、私はその大学を落ちました。違う階にいくことをせず、トイレの前に長い行列をつくっていた彼らの誰かが通ったのでしょう。
先の騎馬戦の話といい、このトイレの話といい、「頭の良さ」とは何なのか本当に考えさせられてしまいます。無論、私が頭がいいなど言うつもりは全くありません。寧ろ、あの程度の状況判断すらできなかった周りが本当に不思議だったのです。盲目的な小学生じゃあるまいし…という気持ちでした。
おかげで今では「頭の良さ」の多様性を十分にわきまえることが出来るようになりました。つまり、記憶力に優れる頭の良さ、複雑な規則を寸分たがわず模倣できる頭の良さ、発想が柔軟な頭の良さ…
みんな「頭が良い」ことの一つの表象です。
さて、世の中で言う「頭が良い」はこのうちのどれでしょうか?全ての総称なのでしょうか?

会社の寮を出て一人暮らしをするようになってから、毎週、近くにあるスーパーへ1週間分の食料を買い出しに行くようになりました。大した料理は作れませんが、自炊の必要があるためスーパー内をぶらつくのが休日の日課になっています。
それにしても、スーパーには何と多くの食材が揃っていることでしょうか。農薬問題や添加物問題、大規模物流に伴う環境破壊や大規模農業による土壌劣化など、考えるべき問題は多々ありますが、それでもこれほど多くの食材が身近な場所で入手できることは大変素晴らしいことだと素直に思います。今晩は何をつくろう…と考えながら様々な品物を見て歩けるだけで幸せだと思うのです。
よく「休日が買い物だけで終わってしまった…」という嘆きの言葉を耳にしますが、家族がこのようなスーパーへ共に出かけ、夕食のことなどをおしゃべりしながら買い物する…それだけで充分に幸せなことだと私は思うのです。
人間、欲を言い出せばきりがありませんが、見出そうと思えばささやかな買い物でも充分に幸せだと思います。人間の良さが「想像力」にあるのならば、未知なる新たなことを想像するのも良いですが、身近にあって見落としがちな幸せを「想像し、感じ取る」力があってもいいのでは…と思います。
ま、私の場合はその前に、一緒に買い物に行ってくれる人を探さなければいけないのですけどね。

とある後輩との会話の中で、一日が終わった時「今日も一日頑張ったな!」と充実感を感じるのはどんな時か…ということが話題になりました。
無論、大きな仕事をやりとげた時は充実感を感じますが、通常の人であれば、そんな大仕事が毎日あるわけではないでしょう。
私の場合「一日の内にどれほど「有難う」と言われたか」によってその日の充実感が決まってきます。しょせん人と人の繋がりの中で仕事をしているわけですから、少しの自分の努力と労力で相手の負担が減り、疑問が解決するのであれば何よりだと思 うからです。
そして、「早いね!有難う!助かったよ…」と感謝されると、気力が充実して「また頑張ろう!」という気持ちになりますし、また逆に、こちらが何かお願いした時も気持ちよく引き受けて頂けるので、非常に気持ちよく仕事が出来ます。
ですから、私のような縁の下の部門の場合は、最前線で働く現場の方々からの色々な要望や問合せにいかに「早く・正確に・丁寧に・誠意を込めて」返答するか、にかかってきます。
そして、一日が終わった帰り道、ぼんやりと今日一日のことを思い出し、今日はこれとあれとそれで「有難う!」って言われたなぁ…と考えていると、何か幸せな気持ちになってくるのです。少なからず感謝されるということは、トラブルになっていない…ということですから、幸福感を感じて当たり前かもしれません。
確かに仕事の究極の目的は利益追求でしょう。しかし、こうやって互いに協力して感謝しあって楽しく仕事することが、結果として利益の向上に繋がると信じていますから、間違ったことはやっていないのだと私は信じています。
他人を蹴落としてまでする仕事とは一体何なのでしょうか。私にはその心底が全く理解できないのです。

最近、インターネットでどのようなな情報でも収集できる世の中になりつつあります。無論、大きな資本を持たず全世界へ情報発信できるインターネットのメリットは計り知れないものがあります。しかしその一方で、根拠の分からない「ガセネタ」が氾濫し、十分な検証応力を持たない人の知識を混乱させてしまっているようにも思います。
インターネットに限らず、あらゆる情報の信憑性を確認する一番のポイントは「互いに異なる見解を持つ有識者の情報(論理構成)を比較してみる」ことでしょう。営利を目的とした民間団体・企業の「情報」は信じるに値しない論外のものとして、一見、中立に見える学識者でも、営利を目的とした民間団体・企業のスポンサーとなることで、偏った情報を提供する事例はよくあることです。
殊にインターネットは、その「匿名性」において、無責任に情報を垂れ流すことが許されています。これがインターネットの情報の恐ろしいところであり、責任の所在が明確な書物との一番の違いなのです。
ですから、情報源の確かな様々な書物や情報を吟味して、やっとおぼろげに「物事の真実」が掴めるようになるのであって、一つや二つのホームページを眺めただけで「知った」と思い込むことは非常に危険なことです。無論、自分自身に確たる専門知識があれば別なのでしょうけど…。

情報…と一口に表現しても、世の中にばらまかれる無数の情報には、その「質」において月とすっぽんほどの違いがあるものです。そのような世の中において、より「質」の高い情報を求めるには、少しでも情報源に近い情報を入手する必要があります。
世の中の情報は、本当の情報源である1次情報を元に2次情報が生まれ、その2次情報を利用して3次情報が生まれます。普段私たちが日常的に接する情報は一体何次情報になるのでしょうか。
しかし一般的に、情報の次元が上がれば上が るほど、原情報が入手し難く、内容が専門的になり、資料が日本語以外の言語で書かれていることが一般的です。ですから、ある知りたい情報に対し、1次情報まで遡って調べることは決して容易であ りません。
しかし、少なくとも普段私たちが接している情報が一体どの次元(レベル)なのか、その「質」がどの程度のものなのか、と客観的な姿勢で意識し、自覚することは非常に大切なことだと思います。

劉慶一郎の小説に次のような一節が記されていました。「顔が広いとは、今現在、どれだけの人を知っているか…ということではなく、初対面の人と瞬時に打ち解けられる教養・人格・知識をいかほど持っているか…ということだ。」
まさに至言だと思います。自分の内面を鍛えることを知らず、様々な集会で名刺をひたすら配布し・名刺収集に奔走する人達…。その人達は「顔が広い、人脈がある」ことの意味を取り違えているのではないでしょうか。何のつながりもない名刺を例え千枚持っていても何の意味もありません。逆に本人に「十分な教養と人格・知識」があれば、どんな人間ともすぐに旧知になり得るのです。私も「顔の広い」人間になりたいものです。

私が学生の頃は、地球環境問題がまだ学術研究の段階にあったため、それを扱った書籍は専門書が大半で、一般的な読み物を見かけることはほとんどありませんでした。しかし、ここ数年環境問題が大きくクローズアップされるようになるにつれ、環境問題を扱った一般書籍もまた、多く見られるようになりました。
このこと自体は環境学を学び、環境啓発に心がけたい私にとって嬉しいことですが、その半面で困ったなぁ…と思うようにもなってきました。それは「中途半端な情報の伝達による情報の混乱」が起こるのではないか…と深く危惧されるからです。
本日「石井佐知子著 環境ホルモンなんて怖くない かもがわ出版」を通読しましたが、まさにこの本が「情報の混乱」の良い例を示してくれています。
この本の著者は化学物質過敏症により、現在日常的に使われている家庭用品に対し激しいアレルギー反応が出てしまったことから化学物質に 関心を持ち、独学で勉強された結果として本書の執筆に至り更には環境問題研究家として講演会を行うこともある…と書かれておりました。
確かに本書を読む限り、自身の体験と苦労を生かした本…という誠意は十分に認められます。が、しかし科学知識の中途半端さからくる「あい まい表現」、「十派一からげ的論調」、「伝聞を元にした不確かな情報」が散見され、読んでいて背筋 の寒くなった部分がしばしばありました。
例えば「水道の水は汚染されているとい われていますので、できれば、浄水器をつけるのが一番いいのです。」これは本文の一説ですが、では
・水はどう汚染されているのか、
・その原因物質は何なのか、
・地域特性はあるのか、
・水質汚染を確認する方法はあるのか、
・浄水器の種類はどれだけあるのか、
・その中で原因物質を除去するのに有益な浄水器はどれなのか、
・また、何故その浄水器がその原因物質に対して有 効なのか…
といったことが分からず、一般論でさらりと流してしまっています。水道水は私達の使用した生活廃水が流れ込む川を水源としています。それを飲料水に変えるために水道局が日々どれほど苦心しているか、また、最新の技術を組み入れ水道水の普 及促進に努力しているか知っている私として、専門的な記載(勉強)をせず、主婦の「井戸端会議」的 な、何の論拠もない記述を安易に行っていることに対し非常な憤りを覚えます。
また、遺伝子組み換え食品の説明をされている中で、「虫が付かないように、虫が触れただけで死んでしまうような花粉で受精した実が安全と言えるでしょうか」と書かれていますが、
・虫が触れただけで死ぬのは何故か。
・それが受精時にどう子孫に影響を及ぼすの か、
・虫も人間と同様の影響を受けるのか、
・それはどのようなプロセスによるのか、
といった確たる論理的思考の無いままに否定 してしまっています。確かに遺伝子組み換えは恐ろしいです。ですから個人的な見解として上記のことを思われるのは自由ですし、私も同じように思っています。しかし、それが活字化され、公演される となると話は全く異なってきます。何とも無責任な発言としかとりようがありません。
確かに右も左も分からない中で独学され、ここまで勉強されたことはとても立派です。しかし、まだまだ他人にそれを説明するレベルには至っていないと正直感じました。本書やこの方の講演会を聞いている多くの人間がいることを考えたとき、非常に「情報の混乱」にたいする恐れを感じて止みませんでした。

私は最近「お金」に非常に興味をひか れます。無論、お金が欲しいからではありません。全く「お金」ほど分かりづらく、理解し難しい存在は無いと、つくづく思うからです。「そんなの簡単さ!ものの価値を決め、その交換物として利用されるものだろう。」そう、人は言うかもしれません。しかし、お金が金本位制から管理通貨制に変わった時点で、お金はその物としての価値を完全に無くしました。しかし、それにも関わらず、お金が価値ある「もの」として重宝されている、この不可解さ…。
「あくまのひき臼」により、人間そのものである労働力まで市場原理に取り込まれたにも関わらず、その対価たるお金に真の価値は無いのです。この滑稽さといったらありません。金本位制を失った今、お金の価値は為替相場により日々フラフラと乱高下しています。ですから、労働=私たちの存在価値もまた、為替相場と共に日々フラフラしているのです。
なぜ、いきなりこんな話をしたのかというと、実は長い人類の歴史の中で、人間は様々な貨幣を上手く使い分けてきたのです。様々な目的を持った貨幣が、互いの機能を補完しあいながらバランスよく機能していました。それが、市場社会と同時に全て消えうせ、現在の単一通貨制度に置き換えられてしまったのです。
しかし、今の世界に生きる人にとっては、様々な貨幣が相互補間しあう世界を容易に理解できません。単一通貨制度のみが貨幣と市場のあり方だと思っています。それこそが私たちを殺伐とした労働地獄に追い込み、何もかも「お金」が解決する無味乾燥な世界にしてしまっていることに気付かないのです。そして、このシステムに身を委ねたまま、地球環境を破滅的な状況に追い込んでゆく…。
システムの中に存在する諸事項は容易に目に付き、改善も比較的容易です。しかし、システムそのものを疑うことは、自分自身がその中で活動しているだけに、なかなかできないものです。しかし恐ろしいことにシステムが万全である保障はどこにもありません。システムも所詮は一部の人間の産物なのです。ですからミスもあれば、誤りもあります。そしてもっと恐ろしい事に、システムの与える影響はきわめて甚大で暴力的です。
ですから私は、システムそのものを疑う目を常に持ち続けたいと思います。普段、当たり前…と思っていることが、冷静に考えてみると非常に不可思議で理解し難いことかもしれません。少なくとも、これ以上地球を傷つけるシステムはゴメンだと思うのです。

日経BP社から「大人のOFF」という雑誌が出されています。本物の食事をしたり、優雅な余暇を過ごすための情報がつまった情報誌です。私もどのような内容か興味があってしばらくの間、購読していました。また、社会人になったからには、このような情報も少しはかじっておかねば…との意識もありました。しかし、やはり私には「その手」の情報がどうも受け入れられないようです。
「南国のホテルで大人の時間を…」として、南方のビーチの立派なホテルの中で、粋なカジュアル服を身に纏った紳士がリクライニングチェアに腰掛け、のんびり本を読んでいる…。庭には立派なプールがあり、その向こうには大自然の海と空…。確かにそれは、いかにも魅力的で「大人な」余暇の一幕かもしれません。
しかし、私は思うのです。あぁ、この贅沢なホテルを建てるためにどれだけの生態系が壊されたのだろう。このホテルの廃水処理のためにどれほど水質が汚染されているのだろう。それらへの影響を考えられないこの紳士は、本当に「大人」なのだろうか…。お金があって、地位があって、限られた資源を贅沢に浪費する「カッコよく、ゆとりある紳士」が、果たして真の意味で「大人」なのだろうか…。
このような時、私の脳裏には、これまでの高度成長時代を素直に反省し、真剣に環境問題と取り組む同年代の「大人」達の姿が浮かんでくるのです。彼らは決して立派なスーツを着ておらず、颯爽としたスポーツカーに乗っておらず、南国の贅を尽くしたホテルへ行くこともありません。
しかし、心から地球環境を憂え、行過ぎた生活を憂え、次世代の子供達の世界を憂え、先を見通して活動しています…。私には、そのような理性的で先見の明を持った人間の方が遥かに立派な「大人」に見えるのです。
かといって「大人のOFF」を否定しているわけではありません。寧ろ良質な記事を扱った立派な雑誌だと評価しています。し、皆様にも自信をもってお勧めできる代物です。
ただ、タイトルがタイトルだけに「真の大人」って何なのかなぁ…と考えさせられてしまうだけなのです。

私は、個人的や組織的な利害に左右される思考ほど視野を狭くしてしまうものは無いと考えています。例え真実ではないと分かっていても、己や己の所属する組織の利益を考え、敢えて曖昧な表現を使ったり、寧ろ「真実だ」と強弁してしまったりする…。そんな首尾一貫しない態度は、結局最後になって自分に跳ね返ってくるのではないでしょうか。
ですから、個人的に真実はハッキリと真実と認めますし、また逆に、相手の言動が個人的・組織的利益に左右された発言でないかと、非常に鋭敏に感じ取ってしまいます。
例えば、現在ガスと電気で問題になっている「CO2原単位問題」。これは恐らく電気側の主張(全電源平均CO2)が正しいと私は考えています。確かにガスの主張(火力平均CO2)を支持しなければ会社が利益を上げることが難しくなるのですが、しかし正論は正論で認めなければいけません。
無論、サラリーマン生活では、全てが全て真実を言える訳ではありませんが、心の奥底に横たわる行動原則として、上の考え方は忘れまい…と思います。

一人暮らしで夜が遅くなる生活ですから、自炊にこだわると、大体メニューが固まってきてしまいます。その定番が「ご飯+味噌汁+納豆・玉子焼き)」。
でも、この「ご飯」が本当に本当に美味しい…。
昔、小学生の頃に「日本の歴史」という漫画を読んでいて、大陸から渡って来た渡来人が日本人に米の栽培法を伝授しているシーンがありました。そしていよいよ収穫の段となり、日本人が炊き上がったご飯を「旨い!」「甘い!」「美味しい!」と驚いて食べていたことを鮮明に覚えています。
でも、その当時は「ご飯の美味しさ」がいまいち分からず、何故ご飯が「甘い」のか不思議でなりませんでした。でも、最近になってつくづく思うのです。本当にご飯だけでも十分甘く、そして美味しいと。(これは職業柄の贔屓ではなく)、火力をかけて炊いたご飯からかもしれません。
また、味噌汁も出しが効いて美味しいし、玉子焼きも甘くてふわふわして本当に美味しい…。こんな素朴な料理が味わえるだけで十分幸せなのに、何故、人はそれ以上の贅沢を求めるのだろう…と不思議に思ってしまいます。こんな美味しい料理を頂ける事に本当に感謝しなければいけませんね。

上の話を、もう少し一般的に話すとこのようになるのでしょう。
現代社会の唯一無二のシステムである自己調整的市場において、価格は商品が本来持つ価値とは無関係に、需要と供給のバランスで決定してしまいます。
例えば、どれだけ美味しく味わい深い食品があっても、供給量が多ければ、価格は自然と下がってしまいます。またその逆もしかりで、例えどんなに不味く味気の無い食品があっても、供給量が少なければ、その価格は高くなってしまうのです。何かおかしいと思いませんか。
先ほどの玉子焼きの話もしかりです。卵というのは価格安定性に最も優れた商品だそうで、どの時代でもほぼ値段が変わらないそうです。ですから、現在の卵の値段は、他の財と比べ相対的に安くなっているのですが、それによって味が変わることはありません。私は本当に美味しいと思います。
現在の自己調整的市場を全て否定する気はありませんが、少なくともこの市場システムが続く間は、商品の本当の価値と値段には全く関係性が無いことを十分認識しなければいけません。皆様も、見掛けの価格に惑わされることなく、真の商品価値を見抜く目を持たれることをお勧めします。

学生時代の私は、本気で小説家になりたいと考えていたため、日本語の文法本や作文のノウハウ本などを何冊か読んだものです。(無論、今でも小説家の夢は持っていて、リタイア後には環境小説・童話を書きたいなぁ…と思っていますが。)
その時、私はかなり文章の書き方について悩んでいました。そんな時、次の文章を読んでとても安堵したことを今でも覚えています。なぜなら、私は当時、どうしても文章表現を「こねくり回してしまう」自分に罪悪感を感じ、「飾らない無垢な文章」に憧れを抱いていたからです。
==================================================================================
文章は苦しみぬいて書くものだと思っている。二十歳くらいの若い頃は、わたしはそれこそ「流れるように」ことばが沸いて出てきて、ノートに書き散らした。…(中略)…
いまは、そんなことはしない。ことばを大切に、浪費しないように使うことを心がけている。そして、時間をかけて文章を書く。苦しんで書いたものは、それだけのことはあるということを肌で感ずるようになった。…(中略)…
苦しみぬいて書いた文章は、書きなぐった文章のもつ一種独特の情熱のようなものが消えてしまうことが多い。それは気体のような透明なもので、文章を練っているうちに空気中に放散してしまうらしい。しかしわたしはそれを惜しいと思わなくなった。熱気のある文章は読者を動かすが、読者もまたしばらくするとその熱気を空気中に放散してしまうものだ。
わたしは、文章を書く以上は読者を動かしたいと思うが、それには一時的な感動でなくて、読んでいるうちはさほどでもないがいつまでも心の底に静かに残っているような文章が書きたい。…(中略)…
「自分が感動しないで、どうして読者を感動させられるか」彼は自分のことばに酔うようにこう言って話をつづけていった。…(中略)…
わたしもそう思っていた時期があった。しかし現在のわたしは、むしろ自分が感動してしまったら、読者を感動させることは難しいのではないか、と考えている。すなわち文章は冷静な計算の上に成り立つもので、自分の表現が読者のどの感覚にどう響くかをわかった上で書かれなければならないと思う。自分が感動するのをわるいとはいわないが、感動しながらも、「感動している自分」を冷たく眺めているもう一人の自分が存在していなければならない。
「文章表現の技術、植垣節也、講談社現代新書、1979」
==================================================================================
これを読んで、「そうか!言葉は飾ってもいいのだ…」と、目から鱗が落ちる思いがしたものです。子供達が「飾らない無垢な言葉」で表現できるように、大人の私達は「知恵や含蓄のある言葉」で表現することが出来ます。
「飾らない純粋な言葉」は「軽く、稚拙な言葉」と表裏一体。
「こねくりまわした言葉」は「重たく、知恵や含蓄のある言葉」と表裏一体。
なるほど…と思いました。
それなら「飾らない純粋な言葉」は「子供ゆえの特権」。それでいいのではないかと思ったのです。子供が大人でないように、大人もまた子供ではありません。純粋な子供と知恵ある大人。そんな役割分担を、私は素晴らしいと思います。
ですから私は、今後責任ある大人の一人として、堂々と「言葉をこねくりまわして」行きたい…と思うのです。

「世の中の移り変わる事象に対し、その「変化量」の裏に隠れる「変化速度」に重大な意味が隠されていることを認識できる人は少ない」と、思います。
私は独り者ですので時々料理を作りますが、料理では、何よりその火加減が重要な要素になってきます。例え同じ品質の材料、同じ品質・量のダシを入れていても、火加減によって美味しそうな煮付けに仕上がったり、真っ黒な炭の塊になってしまったりします。これは火の加減…すなわち「変化速度」の違いによって生じた結果の相違でしょう。
例えば、ある素晴らしい制度を導入しようとした場合にも、導入を急ぐあまりに周囲への説明や根回しを疎かにしてしまうと、多くの反感を買い、結局制度自体が崩壊してしまうことがあります。これは制度の内容(変化量)に問題があった訳ではなく、導入しようとしたスピード(変化速度)に問題があったことになります。
では、とある変化量に対しては、どの程度の変化速度が適切なのか…。そんな答えがあるはずはありません。ケースによってまちまちです。しかし、「変化速度」が物事の変化に対して与える影響を常に意識しコントロールすることはとても大事なことだ…と思います。
お鍋の底で、見るも無残な炭の塊と化した大根を見て、こんなことを考えるのでした(^ ^;

長崎の島原地方に「寒ざらし」という名物デザートがあります。これを食したある人が、「単に白玉ダンゴを甘いシロップに浸しただけのもので、とりたてて美味しいものでは無かった」と残念そうに話していました。でも私は、だからこそ「名物」ではないかと思うのです。
例えば、全国的に有名な福岡の長浜ラーメン。このラーメンは替え玉が有名で、それ以外はとりたてて「これ!」っと言った特徴がありません。本場の長浜ラーメンは具もネギと僅かなチャーシューだけで、見た目も非常に寂しいものです。それが何故だか分かるでしょうか。
長浜は、その名が示す如く海辺の港町です。長浜ラーメンは、早朝から市場に赴く仕入人たちのファースト・フードだったそうです。仕入人は、朝が早く時間も限られていますから「早く、安く、栄養価の高いもの」を摂取するにはラーメンは格好の食べ物だったのでしょう。
このような歴史を知った時、長浜ラーメンに具がほとんど入っていないことも、また安く大量に食べれるよう、「替え玉」という文化が発達したことも容易に理解できるのです。
多く「名物」とは、長浜ラーメンのように、地元の人々の生活に長く密着して伝えられてきた食べ物を指す呼び名でしょう。ですから、地元で取れる食材を使い、どの家庭でも無理なく作れるようシンプルな味になる。それを、食材と調味料に贅を凝らした現在のグリル通の舌で評価すること自体が間違っている…と私は思うのです。
「名物」とは、その味そのものを味わうだけではなく、その味と共に四季を過ごしてきた人々の生活を感じ取るものだと私は思うのです。
しかし一方で、冒頭に記した意見が語られるのも時代の流れなのかもしれません。例えば長浜ラーメンも、昔ながらの素朴なラーメンを出している店はごく僅かで、多くは現代風にアレンジしたものを提供しているように感じます。現代人の味覚と食事感覚にあわせるため、「名物」も徐々に変化していっているのです。私はその変化を善悪の尺度で語ろうとは思いません。古きに固執し、新しきに疎ければ時代の波から取り残されてしまうのも真理でしょう。
ただ、そんな時代だからこそ、未だに昔の香りを残す素朴な「名物」に出会うと、心が妙に浮き立つのです。それはきっと心が、古きいにしえの人々の生活や香りを、その「名物」に感じるからなのでしょう。そして、私はそんな感覚を味わうことのできる「名物」との一刻を、これからも大切にしていきたいなぁ…と思うのです。

「仕事」というものは、概ねどんな内容であっても評価があります。好む好まないに関わらず評価を受けます。結果、素晴らしい評価を受け、昇進したり月給が上がることもあれば、芳しくない評価を受け、怒られたり月給が減ったり、リストラされたりすることもあります。それはそれで大変ですが、少なくとも評価を受けている…という点で、誰かが必ず自分や自分の仕事を見守ってくれています。常に評価を受ける苦しみがある反面、常に評価されている喜びも
あるのです。
一方家事は、そうでないことが多いようです。食事、洗たく、育児…、とてつもなく忙しい無間地獄のような日々をさばきながら、しかしそれは日々の生活の中に完全に埋没し、誰からもまるで空気のように扱われ評価されないばかりか、出来なかった場合にのみ叱られたりします。家事労働…という言葉はまさにそんな家事の「やりきれなさ」を表現している言葉のように思えます。
しかし、果してそれは本当でしょうか。少なくとも私はそうは思わないのです。仕事でいくら評価されても、しょせんそれは会社・仕事の歯車群の一つとしての評価であり、時間と共に空しく忘れさられます。自分がいくら「スゴイ成果だ!」と思っても、それを他の社員がいつまでも記憶してくれているでしょうか。また、仮に働き手が病で倒れたとしても、会社の業務は何一つ、それこそ悔しく茫然自失するほどに完璧に、何一つとどこおることがありません。代わりは腐るほどでもいるのです。Only Oneでも何でも無いのです。このような仕事や仕事の成果に真の意味での価値や充実感があるでしょうか。
この点、家事は違います。死ぬまで続く生活の根幹であり、少なくとも扶養者にとっては唯一無二の存在なのです。まさに「Only One」なのです。だからこそ家事は(普段は評価され、振り返られることが無いかもしれないが)確実に感謝を受けることができるのです。
考えても見て下さい。家事を担った者が亡くなる際に、扶養者から生活を支えてくれた事に対する謝辞を受けることがあっても、働き手がなくなる際に、会社からそのような謝辞を受けることがあるでしょうか。せいぜい、退職時に心ばかりのコトバを記した紙切れをもらうくらいです。
また、特に育児・教育は、我が子を大人まで導く役割なのですから、これ以上に「唯一無二」の存在があるでしょうか。その責任の重大さは会社仕事の比ではなく、だからこそ大変な反面、やりがいもまた非常に大きな仕事だと思うのです。
私は、家事を担う方たちが本心から羨ましいです。何故って「確実に地に足の着いた、唯一無二のかけがえのない存在として、Only Oneの仕事をしている」からです。どうか、家事の担う方達には、そのような誇りと自負心をもって頂けたら…と思います。

私の同僚に「気がきく」と言われるAさんという人がいます。その人は上司であっても、仲間であっても、後輩であっても、困っていることに対して率先を尽くして対応しますので、「実に気がきく」という評価を受けているらしいです。
しかし、私が「気がきくなぁ…」と感じる人は、決してAさんのような人ではありません。
以前、同じグループにBさん、Cさんという人が在籍していました。私から見れば、Bさん、Cさんは実に「気がきく」人でした。
Bさんは、誰の役割でも無い昼休みの消灯を毎日行なっていました。そのことに気付いている人が周りに一体何人いたでしょうか?
Cさんは、機密文書の廃棄時に、率先して廃棄用のダンボールを集めていました。そのことに気付いていた人が周りに一体何人いたでしょうか?
この違い、皆さんにも分かりますよね?
Aさんは、とてもとても「頭が良い」人なので、Bさん、Cさんのような「無駄なこと」は一切しません。例えば、上司が見ている前では電話を取りますが、上司が見ていなければ電話を取りません。「気のきき方」が極めて効率的・合理的です。
こんなAさんは、私から見たら「気がきく人」でなく、「気がきくと思われたい人」なのです。もっと言えば「周囲に媚を売りたい人」なのです。
でも、世の中、こういう「気がきくと思われたい人」こそ、昇進していくのですよね〜。あなたの周りにもいませんか?こんな人…。
私は、できれば「気がきく人」でありたいなぁ。

例えどのような革新的な言葉であっても、また、どのような新しい言葉であっても、それは過去の誰かの発想・発言の言い換えに過ぎない…といった表現があります。
それは確かにその通りでしょう。
でも、だからといって何かを発言する…ということの重要性が少しでも失われるものではありません。
自分が心から納得(腹落ち)し、それを自らの言葉、自らの表現を使って発露するということ…。このことこそが非常に重要であって、その内容が結果的に、誰かの発想・発言と同じであろうとなかろうと、そのようなことはどうでも良いのです。
まず、ある真理に「気付く」ということ。そして次に、その「真理」を第三者に伝えるために「自らの言葉で表現する」ということ。この一連の流れこそ、動物としての人間の根源的な素晴らしさであり、存在価値だと、私は思うのです。
だから私は自らが「気付き」、それを自らの言葉で「表現する」ことを続けていきたい…と考えています。
無論、実は「自らの言葉」などというもの自体が存在しないことも、分かってはいるのですけどね。

子供の能力を伸ばすための一手段として「ひたすら褒め上げる」という方法があり、実際それは、ある程度の年齢まではかなり効果的な方法だと考えています。
しかし、この方法がズルズル長引いてしまうと、子供は「井の中の蛙」になり使い物にならない人間に育ってしまうことでしょう。
ですから、どこかのタイミングで「これまでは小さかった貴方のことを何でも褒めてきたけど、実は貴方は何も知らないんだよ。これからもっともっと色々なことを知らないといけないんだよ」ということを気付くように仕向ける必要があります。まさに「無知の知(自分は何も知らないのだ…ということを知る)」を子供に悟らせる転換点です。換言すれば「知ると分かるの違い」を気付かせる転換点…ということでもありますね。
この転換点に適切な年齢の見極めが難しいですよね。もちろん個人差がありますから一律に●●歳などと決められる訳がありません。
その子の言動や立ち振る舞いをジッと見守り、「今こそ」と思うタイミングで仕向ける必要があります。このタイミングを見極めることが本当に難しいです。
さぁ、2人のわが子の場合は何歳がそのタイミングなのかな?
その時が訪れたら私は子供たちにこう伝えましょう。
「これまで貴方のことを「よく知ってるね。すごいね」と色々褒めてきたけれど、今日からはそれを止めますね。貴方はもう大人なのだから、「無知の知」…つまり、実は自分は何も知らないんだ…ということを知らなければいけません。褒めてもらえない…ということは貴方にとってとてもつらいことかもしれない。でもそれは、父さんが貴方のことを一人の大人として認めたからなんですよ。それとも貴方は、これまで通り子供として「○○くん、すごいね。何でも知ってるんだね」って褒めてもらいたいかな?

「教育の目的は何か」…この問いは非常に深遠なテーマですが、敢えて単純化してしまうと「子供が生存し続けることができる状態にすること」だと考えています。
では、「子供が生存し続けることができる状態にする」ためにはどのような教育が必要なのでしょう。
それは「どうすれば生存し続けることができるか」を教えることではなく、「どうすれば生存し続けることができるか…ということを自ら考え、判断し、決断できるようになる」ことを教えることだと考えています。少しややこしいですね。
具体的に話しますと、前者は「あなたの将来のために〜をしなさい」とか、「あなたの将来のことを考えると〜した方がいいですよ」と指示・誘導する教育を指します。一方後者は「あなたの将来のことを自分で考えてみなさい。しかし、何も情報がないと考えることができないでしょうから、そのヒントとして…」し、世の中にどのような情報があり、その情報の発信者により様々な性質・特性があり、さらにどこからどのような形で発信されているのかを教える教育を指します。
単純化のため、前者を「イデオロギー(人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系)を教える教育」、後者を「イデオロギーを考える教育」とすると、子供に対し本当に必要な教育はものすごく遠回りですが、後者だと思うのです。。
なぜなら、イデオロギーというものは時事刻々変化しますし、場合によって人や立場によっても異なるもので、正解の無い極めてフワフワしたものだからです。例えばほんの一昔前までは公務員になれば一生職が約束されていました。それを知っている世の親たちは「生活のために公務員になる」というイデオロギーを子供たちに伝えました。しかし今や公務員でも中途解雇される世の中です。このように「イデオロギーそのものを教える」教育に力点をおいてしまうと、子供たちが世の中の動きに対応することが出来なくなってしまうのです。
一方、「イデオロギーを考える教育」は自ら生きるために何をすべきかを考えさせる教育ですから、その子供が置かれた立場、情勢に応じて常に柔軟に考えることができます。またイデオロギーを変更することも出来るようになります。しかしその一方で子供の浅知恵で、考えが足りずに誤ったイデオロギーに辿り着いてしまうリスクが生じます。
ですから、親の責任として、そのような誤ったイデオロギーに辿り着かないようにするために(それが誤っているかどうかも正解はありません。もしかすると、それこそ次世代に必要となるイデオロギーかもしれません。しかし、ここではその議論はおいておきます。)世の中の成り立ちを教え、その情報の得方を教えてあげる必要があります。
はっきり言って、こちらの教育の方が遥かに難しいです。なぜなら我々自身も多くは「イデオロギーを教える教育」を受けており、自ら考えたことが無い…いや、自ら考えるための情報源情報がどこにあるかを教えてもらっていないからです。そこを乗り越え、情報源情報を探し出し、次世代に伝える…それが、「子供が生存し続けることができる状態にする」ために必要な教育だと、私は考えています。

「買ってあげている」のか、それとも「買わせて頂いている」のか…あなたの「買う」という行為は、一体どちらの意味を持っているのでしょうか。
普段はあまり意識していないと思いますが、極論で言えば、あなたはどちら派でしょうか?(無論、どちらが正しい間違っているではありませんが。)
これまで接してきた多くの方に質問すると、概ね「買ってあげている」派が多いように思います。この世の中、やはりお金がなければ何も出来ないのですから、そのお金を提供する側の立場が強いはず…というのはある意味、当然のことかもしれません。
しかし私はそうではありません。(くどいですが、別にどちらが正しい…という訳ではないのですが。)
その理由は極めて明快です。「お金そのものが我々に与えてくれる物は、何もない」からです。どれだけお金がたくさんあっても、そのお金そのもので食欲を満たすことは出来ません。また、どれだけお金がたくさんあっても、お金そのものが暖を提供してくれる訳ではありません。お金そのものには人間が生きるための「衣食住」を賄う力が何もないのです。
我々人間が生きるために本当に必要なお米は、農家の方が汗水垂らして生産してくださっています。我々人間が生きるために本当に必要な魚は、漁業の方が汗水垂らして狩猟して下さっています。我々人間が生きるために本当に必要な衣類は、アパレル業者の方が汗水垂らして製造してくださっています。我々人間が生きるために本当に必要な家は大工の方が汗水垂らして製造して下さっています。
ですから、もし全ての農家の方があなたにお米の販売を断ったら、もし全ての漁業の方があなたに魚の販売を断ったら、もし全てのアパレル業があなたに衣類の販売を断ったら、もし全ての大工があなたの家の製造を断ったら…。我々はお金に埋もれたまま素裸で寒空の下、死ぬしかありません。
ですから、お金という「単なる物」しか持たない私たちは、心からの感謝の念を込めて、生きるために本当に必要な衣食住を「お金」という物を渡して譲り受けているのです。
私はコンビニで物を買うときですら必ず「有難う」「どうも」といったお礼を言うようにしています。その「心」は上に書いた通りなのですよね。
