私の今までの成長記録です。主に思想面での記録を掲載しています
◆1975年8月4日(0歳)
【誕生】
神奈川県鎌倉にて、松岡忠・和美の次男として生まれる。

◆1976年(1歳)
【引越し】
九州の佐賀へ引越し…たらしいが、全く記憶にない…

◆1977年(2歳)
【引越し】
九州より東京都杉並区へ引越し。この頃から私の記憶は始まる。

◆1979年4月1日(3歳)
【幼稚園 入園】
幼稚園へ入園…していたはず

◆1980年(4歳)
【引越し】
「年中」の時に東京都杉並区より静岡県清水市草薙へ引越し。最初は「けん、けん」言う静岡弁が耳についた記憶が…。でも、一番腕白で多感な幼少時代をすごした静岡は今でも私の一番の「思い出の地」です。帰ったら懐かしくて泣いちゃうだろうなぁ…
【読書が趣味に】
この頃、母が頻繁に図書館に連れて行ってくれたお陰で、大が本好きになりました。よく、台所の入口に座って、夕食の支度をしている母に本を読み聞かせたものです。あれは本当に良い教育だった…と今でも思います。その後、小学校に入学しても行き帰りはとにかく読書。本当に二ノ宮金次郎状態でしたね。歩いている間本を読むと、気付いたら家の前に立っているのです。これほど便利な方法は無いので、すっかり病みつきになりました。でも、今考えたら、いくら静岡の田舎とはいえ、よく事故にあわなかったものだなぁ…。
【ピアノ】
ちなみにこの頃までピアノを習って(習わされて(^^;)…)いたなぁ…。当時は本当に!本当に!嫌で嫌でしかたなかった…。だから、音痴な私と違い、母に期待されてピアノを続ける兄が気の毒で…。でも、今となっては、もっとやっておけば良かったと思っています。でも、少なくとも楽譜の見方を覚えるくらいまで習うことが出来て、今はとても母に感謝しています。
やっぱり、気持ちや感情を音で表現できるって素敵ですよね。例えそれが下手糞でもね。

◆1982年4月1日(6歳)
【小学校 入学】
静岡市にある駿府城のすぐ隣の小学校でした。「静岡大学教育学部付属静岡小学校」これが小学校の正式名称。ここがどんな学校かは分からず、ただ学校名の長いことがお気に入りでした。子供の心理って本当に理解できないものです。ちなみに入学にあたっては逆上がりをしたり、ライオンさんの絵を選んだり、どうもこれが入学試験だったようです。何とものどかな話です(^^;)。電車通学でした。
【Newton・子供の科学 愛読】
この頃、「Newton」と「子供の科学」を買ってもらって読んでました。Newtonは訳が分からなかったけど、図が多くて読みやすかったですね。思えば、Newtonの異常気象レポートが、私の環境に対する意識の原点だったように思います。
【恩師】
小学校5年(転校)までの担任は水島先生・杉田先生・前田先生。皆、立派な先生達でしたが、特に杉田先生の記憶は今でも鮮明に残っています。とにかく怒らない先生でした。ただ、悪いことをすると、本当悲しそうな困った顔をされるのです。これには腕白坊主な私も、「あぁ、悪いことをして困らせてしまったんだなぁ…」と反省させられました。常に大人の背中を見せてくれた、心優しい先生でした。
【サッカーを始める】
忘れもしない、小学校の友人「西条光進」に誘われて有度一(ウドイチ)サッカークラブへ入団。以後、私はひたすらベンチウォーマーの道を歩みますが、彼は市の選抜チームに入り、その後清水市商業高校(清商)へ入学。あの川口能活と共に高校選手権を制覇することに…あの頃にサインをもらっておけばよかったなぁ…
【とにかく釣り!】
静岡県は釣りの名所です。海釣りも出来れば、川釣り、果てや渓流釣りまで出来ます。このころの私は釣りにすっかりはまっていました。近くに駿府城の堀があり、初心者にとってはもってこいのトレーニング場なのです。最初はヌカビン(ビンドウ)でタナゴやモツゴなどを採っていたのですが、やがて釣りにはまりました。この頃は夏休み一日と欠かすことなく釣りをしていました。挙句の果ては小学校のクラブまで釣りクラブ。自分で釣った魚を教室の水槽に入れて眺めていました。一度だけ偶然にヘラブナを釣り上げた時は最高の気分だったなぁ…。他に海釣りもやりました。一度クロダイの稚魚を釣ったことがありますが、あの引きの強さには心底ビックリしたものです。結局、この趣味は小学校5年に東京へ引っ越すまで、ずっと続きました。
【超伝導の実験を見る】
どこの企業のどんなイベントだったか全く覚えていませんが、母に連れられて「超伝導」の実験イベントに行ったことを覚えています。不思議なもので全体像は覚え出せなくても、「金属みたいなものが白い湯気(あまりの低温の為)の中で浮かんでいた…」情景は今でも覚えています。
きっと、母のこのような地道な教育のお陰(?)で、理科に興味を覚えていったのでしょう。今思えば本当に感謝に止みません。

◆198?年(??歳)
【引越し】
静岡県清水市草薙から清水市原町へ引越し。社宅ですが、大きな平屋の旧家でした。海に近くなったため、ますます釣りにはまっていきました。相変わらずサッカーも続けています。

◆1987年(11歳)
【引越し】
小学校5年生の時に清水市原町から東京都大田区へ引越し。「釣り」が出来なくなることが残念でした。

◆1988年(12歳)
【引越し】
東京都大田区より千葉県柏市へ引越し。初めてのマイホームです!親の苦労も知らずにはしゃいでました。以後、大学卒業まで千葉に留まることになります。
【マイコン・ベーシック 愛読】
兄が購入したパソコンMSX(懐かしい!!)に付属していたベーシック(プログラム)にはまりました。算数の計算や画面の表示などが自分のプログラムによって行える!これは大きな衝撃でした。以後、釣りの代わりにパソコン・プログラミングが趣味になりました。
当時、ドラクエが大ブームとなったため、ドラクエもどきRPGを自分で作ろう…と、マイコン・ベーシック片手にプログラムの遊び(勉強?)に没頭したものです。
注)マイコン・ベーシックには素人の読者が投稿したプログラムが多数掲載されており、プログラミングの参考になる。
【三国志にはまる】
この時期、兄が買っていた横山光輝の三国志にはまりました。筆箱に三国志の武将をマグネットで貼っていたものです。

◆1988年4月1日(12歳)
【中学校 入学】
地元にある田中中学校へ入学。名前がすごい!。ジャージに「田中中」って書いてあって、よく他の中学生から「たなかなか」ってからかわれてました。
でも土中(つちちゅう)…何て中学もあったから、まだましかもしれませんね。さすがに田舎です
【恩師】
中学1年の時に担任となった安先生。中年の独身女性(国語担当)で、竹を割ったような性格が好きでした。安先生の「初心、忘れるべからず」の言葉から私の中学生活はスタートしました。
【恩師?】
中学2〜3年時の担任、島田先生。多分、30前の独身女性(社会担当)。私が教師を嫌いになることは少ないのですが、その数少ない「嫌い」な先生でした。筋を通しているようで非常に感情的で、その感情にまかせて暴力を振るう先生でした。今では人生における良き反面教師となっています。
【マイコン・ベーシック 愛読】
相変わらずプログラミングが趣味でした。中2の時に何かのご褒美としてFMタウンズを買ってもらいました。初めて10万円という大金を持って秋葉原へ行ったことを、今でもよく覚えています。
以後、F−BASICへ転向。ようやく、ある程度思い通りのプログラムが組めるようになりました。
【科学実験部】
中学でもサッカー部に入る予定でしたが、何故か科学実験部へ…。科学実験…といってもしょせん中学生ですから、ほとんどお遊びみたいなものです。以後、サッカーは休み時間にやる趣味になりました。
【生徒会へ立候補】
何でもやりたがり屋の私でしたので、特別な意識もなく生徒会へ立候補。その時、兄(同じ中学に在籍)や兄の友達が応援してくれたのは、本当に嬉しかったなぁ…。当時兄は、(私はとっくに止めた)ピアノが益々上手になっていて、必ずクラスの合唱コンクールなどでピアノの伴奏を任されていました。だから、兄を知っている人が多かったのでしょう。お陰で、相手に勝つことができました。でも、そのライバルとはその後とても仲良くなりました。また、いつもカッコよくピアノを弾く兄は本当にすごかったなぁ…。
また、生徒会活動で夜遅くまで収支計算などをやって、まだ使い慣れないワープロを打ちながらも楽しんでいた記憶があります。
その夜の残業の中で、同じ生徒会の友人と「中学に入ってから、随分英語の勉強をした気になっているけど、実際に話そうと思うと全く話せない。全く僕たちは勉強不足だし、これから色々と覚えなければいけないことが多いね…」といった会話をしたことをなぜか鮮明に覚えています。彼は今、どうしているのかなぁ…
【日本史が大好きになる】
父も大変な本好きで、家には多くの文庫本がありました。司馬遼太郎、新田次郎、城山三郎が多かったと思いますね。これくらいの年齢になって徐々にそれらの本を読み始めました。特にはまったのが司馬遼太郎。お陰で歴史(特に日本史}が大大好きになりました。今でも史跡を巡り昔を偲ぶ旅行が私の趣味になっていますが、そのきっかけを作ってくれたのが父の蔵書でした。

◆1991年4月1日(15歳)
【高校 入学】
小金高校…という高校で、私はこの名前がとても好きですが、友人からは「何かコガネムシみたい」と、からかわれました。
【三浦綾子との出会い】
本屋で何気なく手にとった三浦綾子氏の「生かされている日々」に衝撃をうける。その考え方、人となり…心底、感動しました。以後、三浦綾子の大ファンとして、著作を片っ端から読んでいくことに…
【環境問題との出会い】
これまた偶然ですが、中公新書「環境倫理学のすすめ」を偶然手にし、衝撃をうける。最初は難しく、書いていることがよく分かりませんでしたが、何度か読むうちに環境問題の難しさが身にしみて分かって来ました。恐らく私の環境に対する直接的な原点ではないでしょうか。以後、大学院に至るまで、本書は私の座右の一つとなりました。
【恩師】
高校時代は非常に多くの恩師に恵まれました。私がここまで反社会的(?)になったのも、小金高校の先生達のお陰です(?)
…折りしも「国歌・君が代」問題が吹き荒れた時代に数少ない「国歌・君が代反対校」を守り抜いてきた先生方ですから、皆さん優秀で、思想的に筋金入りで、ちょっと変で、でも気骨のあるとても尊敬できる先生方ばかりでした。
ちなみに当校は、「自主・自立の精神」を錦の御旗に掲げた、千葉県でも有数の問題校(教育委員会から見れば)で、国家・君が代が教員・生徒達のために実施できずコロコロ校長が変わる学校でした。最後は教育委員会のお偉いさんが直々に校長となり、教師との間で暴力沙汰まで起こすしまつです。
権力の底なしの恐ろしさを学んだ3年間であり、「思想」というものに目覚め学んだ3年間であり、私という人格を決定付け、今後の生き方を決定的にした3年間でもありました。
まず、地理担当の堀田先生。毎回「地理まめ知識」で、私達の知らない裏の歴史・世界がたくさんあることを教えて下さいました。バナナの農薬問題やダイヤモンドの独占、保険業の実態など、表面に見えるものだけを見ず、大企業の横暴や権力の恐ろしさなど、裏にある隠された真実を探求することが、知識を付けることの意味だと教えて下さった先生です。
また、国語担当の近藤先生(3年担任)。性格は至って穏やかでしたが、思想問題である「国家・君が代」問題には敢然と立ちはだかってらっしゃいました。「国家・君が代」の歴史、国の思惑について、色々な資料を用いて説明して下さいました。また、NPOやNGOといった社会団体の存在を教えて下さった先生でもあります。
現代史○○先生…あぁ、名前が出てこない…いつも教科書とは全く関係のない授業をされてました。でも、南京大虐殺(事実かどうかは別として)や沖縄戦での日本軍の横暴など、戦争や国家権力の恐ろしさを教えて下さいました。「人権数え歌」をよく熱唱されていましたね。
そして物理の秋葉先生!あぁ、何故亡くなられてしまわれたのですか???結局、恩を一つも返すことが出来ませんでした。夏休みにも関わらず受験生のために毎日一生懸命補習をして下さって、でも、私だけが成績が伸びずいつも申し訳無く思っていました。だから、情けなくて先生の側に近寄れなかったのです。
そして、やっと結婚され、宙君が生まれ幸せそうだったのに、その後の離婚、そして宙君を一人この世に残して逝去…いつも私達のことを思って下さっていたのに、あまりに痛ましい人生でした。仲間達と共に心からご冥福を祈らせて頂きます。
【人間や教育への関心】
また、上記のような高校生活を送ったため、「教育」の恐ろしさについて衝撃を受け、関心を抱いた時期でもあります。「人を育てるとはどういうことか」「人のあるべき姿とは何か」「人は何を学ぶべきか」「真の人間性とは何か」…そんなことを真剣に考えだした時代でした。ちょうど三浦綾子の著作を読み始めた頃ですから、影響も大きかったですね。今に至るまで人間や教育に並々ならぬ関心を持ち続けているのも、この頃の経験があったからです。
【またもや生徒会活動を】
やはり何でもやりたがある私は、またもや生徒会へ立候補。でも本当は、生徒会に「可愛い子」がいたからなんです。男の動機何て、結構不純なものが多いかも…(^^;)。
しかし、上に記したように学校が学校でしたので、制服問題・君が代・日の丸問題等で何かと目立つことの多い多忙な生徒会でした。変な意味でなく、生徒会室の雰囲気…が好きだったのかもしれません。
私がボランティアや政治に目覚めたのも、生徒会で出会った仲間や先生のお陰かもしれません。実際、サッカー部だった私以外は皆「文科系」の部活所属者ばかりで、このような機会がなければ彼らと知り合うことがなかったでしょう。体育系と文科系の部活所属者では、本当に「異次元」と言っていいほど、物事の考え方に隔たりがあるものです。
当時は「ネクラ」「マニア」と思い、なんとなしに遠ざかっていた文科系部活所属者ですが、今考えると、肉体馬鹿の体育系部活所属者に比べ、遥かに物事をよく考えていたなぁ…。
【ギターを始める】
どうしても、どうしてもギターがやりたくて、かっこよくて、ついにギターを独習。と言っても、エレキでなくフォークギターですけどね。最初は生徒会の先輩から安いギターを引き受け、コードを一つ一つ覚えていくのが楽しかったなぁ…。ま、でも全然上達しませんでしたけどね。
いいのです。プロじゃないんですから、自分が楽しんで弾ければそれでいいのですよ(^^;)
【またもやサッカー部】
小学校からやっていたサッカーをもう一度やりたくてサッカー部へ。でも、全く駄目でしたね。中学校で遊んでいたブランクは大きな壁となって跳ね返ってきました。結局ずっとベンチウォーマーで終わりました。下手くそ過ぎて周りの仲間に迷惑をかけてしまったなぁ…。ゴメンナサイ。

◆1994年4月1日(18歳)
【浪人生】
もともと国語・現国が大好きで、理科・数学が苦手だった私です。漠然と国文か英文に行って小説家にでもなろうかと思っていました。しかし、文系科目に「暗記」が多いことに辟易し、受験時に急遽理転。しかし、もともと理系の分野は苦手だったため、一浪するはめに…
まぁ、もともと一年は浪人すると決めていたのでのんびりしていましたが、今思えば、親に負担をかけたものです…。
【「家栽の人」との出会い】
数少ない浪人時代の思い出がこれ。友人に薦められてまさに感動しました。今に至るまでの私の中で、一番の座右ではないでしょうか!

◆1995年4月1日(19歳)
【大学へ】
理系の中で一番興味をひかれた建築学科を片端から受験し、結局東京にある工学院大学へ入学。人間や、人間の根源にある「衣食住」について学びたい…というのが、建築学科志望理由でした。
【塾の講師】
生まれて初めてのアルバイトは絶対に塾の講師と決めていました。高校時代に考えてきた「教育(人間性教育・思想教育)」をどうしても実践したかったのです。また、私も高校の先生のようにありたい…と思ったからでもあります。
工学院は1〜2年は八王子キャンパスですが、その近くにあった「プリンス進学院」へ赴きました。そしてここが、いわゆる進学塾でなく、成績が悪く、躾が出来ていない子供たち相手に「あいさつから始めよう」というスタンスでやっている塾だと分かり、すっかり気に入ってしまいました。人間性教育・思想教育実践の場としてぴったりだったのです。
担当科目は、自分の得意な国語を希望し、採用。おかげで、大学時代の前半は塾の予習と子供への補講の毎日。自分の時間は全く取れませんでした。よく、他の講師の方々と、明日の大学のことも忘れて深夜まで「教育」について話し込んだものです。おかげで大学の講義中に最前列で居眠りしたことも…。講師のほとんどは私と同じ大学生でしたが、心が熱く、子供思いの「いい先生」ばかりでした。この時代に取り交わした「教育論」は、今でも私の精神性の礎となっています。
こうして、多感な生徒・講師たちと共に泣き笑いした2年間は貴重な経験であり、教育というものの難しさを5感で実感した2年間でもありました。
【日本語のお勉強】
もともと「小説家になりたい…」という希望がありましたが、さらに塾で国語を担当することとなったため、再度国語のお勉強。日本語の文法や作文の作り方など。この時の勉強で日本語がますます好きになりました。でも、今でも小説家の夢は諦めきれません。定年後は、環境問題を扱った小説でも書きたいなぁ…。
【中島康孝研究室へ】
3年時に研究室配属となりますが、構造系・計画系にも惹かれつつ、やはりエネルギー使用と密接な関係のある空調系を選択。結局、「水蓄熱式空調システム」の権威である中島康孝教授の研究室を希望し配属。「水蓄熱空調システムの最適制御」に関する論文をまとめました。そう、気がつく方は気がついたと思いますが、私は思いっきり「電気寄り」の研究をしていたことになります。この論文で優秀論文賞を頂きました。
【帰るときには電話する】
大学でも大学院でもそうでしたが、とかく走り出すと止まらない性格で、研究室に配属になってからはほとんどアナグマ状態。その結果、自宅への連絡も「帰らない時は連絡する」から、いつの間にか「帰るときには連絡する」に…。研究室の冷たいコンクリートの上に薄っぺらなシートを敷いて眠りこけたものです。お陰で朝一番に来る掃除のオバチャンとすっかり仲良くなりました(^^)。

◆1999年4月1日(23歳)
【大学院へ】
卒論は「水蓄熱式空調システムの最適制御」がテーマでしたが、やはり、室内環境だけでなく、地球環境全般のことが学びたくなりました。そこで色々研究室を調べ上げ、結局、大阪大学で「環境システム工学」を教えられていた盛岡通教授の研究室へ移ることに。当時、環境系…というと「室内環境」を指すことが多く、「地球環境」問題を学べる研究室は数少なく、特に明確に地球環境を掲げていた大学院が筑波・京都・大阪の3つ位だったのです。
【NPOボランティアへ参加】
高校時代の恩師に教えられた社会運動をしたくて、遂に地球温暖化防止を活動テーマにしたNPO「気候ネットワーク」(京都)へボランティアとして参加。
環境教育の一環として小学校へ行って「地球温暖化」問題について説明したり、地球温暖化防止の冊子をまとめたことは、今でも大きな経験になっています。
また、この時に与えられた仲間達とは、今でも親しく交わらせて頂いてます。私が遠慮なくガチガチ話を出来る、数少ない友人達です。もっとも、彼らの前では、私の「ガチガチ度」なんて本当に可愛らしいものですけど…。ねぇ、木原くん・さん、須田さん!
【バイオガスの都市ガス利用】
今まで新聞の知識レベル位でしか「地球環境問題」を知らなかった私が、2年後には修士論文をまとめなければいけない…ということで、ものすごいあせりがありました。学部から持ち上がりで来た仲間との知識量のギャップはすさまじいものでした。最初の一年は片端から地球環境に関する本を読みまくったものです。本代だけで100万くらいつぎ込んだのでは…
そうして色々知識を吸収していく中で、自然エネルギーを利用できる電気と、枯渇性資源に頼っているガスとの違いに気づき、何故、ガスは自然エネルギーを利用できないんだろう…と思うようになりました。そこで選んだテーマが「バイオガス」。当時北欧ではバイオガスを都市ガスに混ぜて利用する仕組みがありましたが、日本ではバイオガスの利用が一部にとどまっていました。そこで選んだテーマが「バイオガスの都市ガス利用」。無論、現在に至るもこのようなシステムは生まれていませんが、生ごみ等から発生する生ごみを都市ガスとして使用しよう…という発想は間違っていないと今でも信じています。
【祖父の死】
私がとても尊敬していた祖父が逝去しました。私がとても尊敬していた祖父で、また親族を失った初めての経験だった為、非常にショックを受けたものです。その時の私の気持ちは「Novels」に赤裸々に綴られていますので、宜しければご一読下さい。
《以後、思想的な部分が少なくなりますので、業務上の履歴を…》

◆2001年4月1日(25歳)
ガス繋がりで就職活動はガス4社のみ。電力会社の門を叩く気は全くありませんでしたし、SEやゼネコン、サブコンの検討はしましたが、結局、研究でガスに馴染み、天然ガスが一応環境に優しいエネルギーということもあって、唯一私を採用して下さった九州の西部ガスへIターン就職。私にとっては初めての九州でした。北九州のチャッチャッという方便がすごく耳についたことを覚えています。また、研修中に「せからしい」「しゃーしい」という言葉が頻繁に出てきて、どんな意味なんだろう…と戸惑ったことを覚えています。
【車の免許が無い!?携帯電話も??】
新入社員研修を受け、いざ配属先の発表があってビックリ!それは私が「設備工事G(お客様の敷地内のガス工事を現場にて監督する部署)に配属されたからです。何故って、私はその時「車の免許」を持っていなかったのです。勿論、就職活動時にそのことはキチンと話していましたが、採用担当と教育担当で話が伝わっていなかったのでしょう。配属初日に「免許が無い!?そんなことでどうやって仕事するんだ!」と、支社長から怒られた社員は私くらいなものかも…(^^;)。いま思い出すと微笑ましい話です。その後、私が仮採用の身で粛々と自動車教習所へ通ったことは言うまでもありません。でも、試験に一回も落ちることが出来ないので、ものすごいプレッシャーでした。
ちなみに免許も携帯も環境ポリシーゆえのことでしたが、就職後はそうもいかなくなりました。
【ひたすらガムシャラに…】
とにかくガスの実務を全く知らない訳ですから、それはもうガムシャラの一言です。この時期は思想うんたらと生意気を言っている暇は全くありません。1週間で数日は会社に泊まりこんで仕事をしたのも今となっては良い思い出です。とある場所(今はまだ書けないような部屋(^^;))のソファーに作業着のままごろ寝していました。何か、場所が大学→大学院→会社と変わっても、やっていることはちっとも変わらないなぁ…。でも、その頃に学んだ諸々が、現在、仕事する上で大きな糧となっています。
しかし、会社から寮にかえって冷静になると、環境問題に関わる活動を全くやれないことに激しいあせりを感じてしまう。しかし再び会社に出ると充実した仕事に夢中になる…。そんな状態を繰り返していました。精神的には不安定だったかもしれません。
【ガスフェアにて】
ガスの良さを何とか伝えたい…しかし、当時の支社にはガス機器をPRするイベントがあってもガスそのものをPRするイベントがありませんでした。そこで、機器の展示会に小さな小さなスペースを頂いて、他の若手メンバーと共にガスをPRするブースを企画。これが大盛況。展示物から何から手作りのブースだっただけに本当に嬉しかったです。若手にこのような企画を任せてもらえる会社にも大感謝!
また、この年のガスPRブースの成功を受け、徐々にガスPRブースが拡張。しかし、相変わらず展示物が足りず予算ももらえず。建築出身の血が騒ぎ、毎日深夜まで残って色々な展示模型を作ったものです。あの展示物は今、どうなっているかなぁ…。

◆2003年9月1日(27歳)
入社3年目で北九州から福岡へ異動の内示。まだまだ北九州にいると思っていただけに本当にビックリしました。しかも、新職場の営業技術部で、異動そうそう●●億の予算管理を任されることが分かり更にビックリ。責任の重大さに身が引き締まると共に、こんな若造に●●億の予算管理を任せて頂ける事実に感謝!また感謝!です。
【ガスメーター担当に】
異動後はガスメーターの主管となりました。それまで「ガス量を測る器械」程度の知識しか無かった私に、翌日から各地区より、メーター主管として技術的な質問の嵐。これは本当に参りました(^^;)。何しろ私よりずっとメーターに精通された方が、更に分からないことを聞いてくるのです。私に分かるはずがありません。質問の答えどころか、質問の意味すらも理解出来ない状態。
しかし、技術資料を読み込むうちに段々メーターの奥深さが分かるようになり、今では「ガスメーターを抱いて寝ている」とまで噂されるようになりました。いくらメーターのビデオを見ながらニヤついていたからといって、それは言い過ぎだと思いません???(でも、ちょっと嬉しいかも…)
【サイクル・システムの構築】
ガスメーターと共に主管となったのがガス管の撤去工事。昨今の他燃料攻勢に伴い、オール電化等への切替が増え、ガス管の撤去も急増していました。これについては、北九州時代から営業情報として貴重な撤去情報が体系的に管理されていないことに懸念を感じていたところでした。
ですから、まさかそのシステムを自分で構築できるようになるとは夢にも思いません。小さい頃よりパソコンやプログラムの知識を独習してきたこともあって、非常にやりがいのある大きな仕事でした。そして苦難の末に完成したシステムに付けた名前が「サイクル・システム(SAI-CLE:Saibugas Customer's Legacy System)」。
Legacyは某メーカーの車名にあるように"歴史"という意味もありますが、その他に"遺言"という意味もあります。つまり、ガスから離れていかれるお客様の大切なご意見(遺言)を真摯に受け止め、反省すべきは反省し、教訓としよう。そしてその結果、そのお客さまに巡り巡って再びガスをご利用して(サイクルして)頂こう…そんな思いを込めたネーミングで、我ながら良い名前だと思っています。後は、その中身をより充実したものにしていくだけですね。
【ガス展での保安コーナー】
私が福岡に異動となった年より、当社では「ガスなら出来る展」というグループ挙げての謝恩イベントを行うようになりました。そこで偶然にも私は保安コーナーを担当させて頂くことになりました。無論、最初は1担当者に過ぎませんでしたが、4年を経た今年はコーナー責任者として活動させて頂きました。異動した当初は、福岡でもやはりPR用の模型が無く、北九州と同様に深夜まで残って展示模型をセコセコ作成していましたが、最近は漸く予算も出るようになり、そこそこの模型がつくれるようになりました。
【感震メーター模型の制作】
上記ガス展にて作成した模型の一つに「感震メーター模型」があります。これは地震時にガスメーターが自動的にガスを遮断する様子を再現する模型で、以前、東邦ガスのショールームで拝見してより、是非当社でも作成したいと考えていました。このような説明は、模型を使って再現した方が遥かにお客さまのご理解が得られ易いものです。百聞は一見にしかず…の言葉の通りです。しかし、他の模型と違い、さすがに手作りでは製作出来ず、会社から予算を頂くしかありませんでした。これが、福岡県西方沖地震を契機に作成を許可され、遂に念願が叶ったのです。メーターにガスが流れている状態で模型のスイッチを押すと、メーターが徐々に振動を始め、遂にガスが止まる様子は非常に分かりやすく、ガスの安全をPRする絶好の模型だと考えています。

◆2006年1月11日(30歳)
【兄の逝去】
本当に、本当に、あまりに突然の出来事でした!正月に皆で会ったばかりだったのに!その時も「風邪をひいた」と言っていて、それほどヒドイ状況ではなかったのに!本当に人の生命とは分からないものです。享年32歳。余りに早すぎる人生でした…。
その葬儀に参列下さった方々、実に500名超え。夭折ゆえのこととは言え、兄の人間性がよく表れた葬儀となりました。兄はよく私のことを自慢してくれていた…とのことですが、私にとっては「どんな人からも慕われ、ちょっと大雑把ですが心優しい」兄こそ本当に自慢の兄でした。身贔屓ですが故人のことですのでご容赦下さい。私がずっと一人でいることを心配し、「彼女が出来たらまず俺に教えろ。お前は女性を見える目が養われていないから、俺が見てやる」と言ってくれたのも兄でした。
最愛の妻と、まだ幼い子を残しての夭折。本当に悔しく無念なことでしょう!しかしどうか安らかに眠って下さい。

◆2008年7月1日(32歳)
【日本ガス協会へ出向】
以前から、「ガスの仕事をするのであれば、日本で一番、業界の情報が集まる「日本ガス協会」へ出向したい…」と願っていましたが、その念願を遂に叶えさせて頂きました。これも、私を信用して頂いた会社の方々のお陰です。私を出向させたことで恥ずかしい思いをさせてしまってはいけませんから、目一杯頑張るしかありません。
しかし、本当に不思議なこともあるもので、今まで大阪の実家で生活していた両親が、この10月に父の東京転勤に伴って東京に来ることに!本当に偶然に偶然が重なっての事実。宗教色の無い私でも、兄の導きか…何て考えてしまいます。

◆2009年12月6日(34歳)
【結婚】
ずいぶん前からの知り合いでしたが、ふとした再会で結婚することになりました。よい人に巡り合えないまま30も半ばに突入しそうな私でしたが、人には巡り合う季節があるのだ…としみじみ実感しました。
結婚式は、お金を掛けて贅沢に行なうのではなく、これまでのたくさんの感謝の気持ちと、これからの宜しくお願いしますの気持ちを込め、和やかにほのぼのと行ないたい…との思いが二人の共通した願いでした。列席頂いた皆さま全員への思いを込めた手作りカード、エントランスに飾った手作り紙細工の城、ケーキカットでなく思いの込もった植樹、ご列席者一人一人への挨拶周り…など、二人の手前味噌ではありますが、希望通り、和やかでほのぼのした結婚式にできたと思います。
有難い挨拶を頂いたE本部長、Iマネジャー、乾杯の挨拶を頂いたM部長、手作り「青スポ」を作って下さったA先輩、心温まるスピーチを頂いたMさん、定番余興を演奏して頂いたT君他同期のみんな、傑作ビデオを製作頂いたS先輩Sさん、H君ほか部の皆さま、博多の伝統的な祝い歌「祝いめでた」を歌ってくださったI部長、Fマネジャー、I先輩、そして博多一本締めで締めくくって頂いたTマネジャー、本当に本当に有難うございました。そしてこれからもどうぞ宜しくお願いします。

◆2009年4月30日〜5月8日(34歳)
【旅行】
旅行には私の一言からトルコに行くことになりました。トルコは文明の交差点としてヨーロッパとアジアをつないできた国…と聞いていましたが、聞くのと見るのとでは大違いで、あまりの歴史の深さ、錯綜する文明、風土の広大さに諸事圧倒され続けでした。また是非行ってみたい国です。

to be continued …